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若き日の記憶の旅4

こんにちは、Fairytaleです029.gif

若き日の記憶の旅4~幼少期の食べ物にまつわるお話編~です。


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父の会社は管工事事業をワタクシが生まれた年、父が24歳の時に興したイワユル零細企業だ。

父は会社を立ち上げて弟が生まれてからも、銀行からの融資と大きな規模の官庁から上水道管本管工事を入札でとる営業をメインに、すべてといってもいい工程を独りで取り仕切ってやってきた。

いつも切羽詰まった父は怒ってばかり、顔を合わせる度に何かにつけて文句を言われるのだから当時の子どもには、たったもんじゃない。(恐らく今のムスメの心境と同じだろう)

小さな会社でも、家庭持ちの社員を10名近くかかえていたその経営の様をずっと見てきた。

幼稚園に入園する時期も逃してしまった母は、気づけばワタクシは年中さんになっていた…というくらい呑気な…いや、それどころではなかったのだ。

自分たちの生活は社員の後。

父と同じテーブルを囲んで食事をした記憶はほとんどない。

申請締め切りの図面を外注の設計士に出す予算なぞない父は、明け方まで図面を書くことはよくあったようだ。

いくら若いとはいえ、昼間は社員と一緒に土木工事の本管を埋設するための〈穴掘り〉を掘削するユンボと人力で掘り進め、入札にはスーツに着替えて営業し、夜にはそれなりにお付き合いで飲めないお酒を飲んで仕事をとってきた。

そこには、若い野心と生まれながらの負けん気で、成立したのだろうか。

母も急いで夕食をつくったきりで、一緒に食べたことも記憶に少ないのだ。

そういえばいつ食べていたのだろう…。

弟はそんな母を思い、幼いながら〈ママのぶんは?〉といって自分のおかずを残そうと食事の度に聞いていた。

母はそんな弟がたいそうかわいかったので、ふたりはいつもベッタリ。

自分の隙もなかったが、割ってまで入ろうともしなかったし、甘えん坊の弟にそれは譲っていた。

長女ならそういった経験はよくあることだろう。

少なくとも自分はそういう環境で育って正解だったと思う。

過干渉に育てられるよりも気がラクというもの。



遅い夕食時、幼い弟は食べながらよく居眠りをしていたその光景は、今の厳つい図体からは想像がつかないが、小さくてかわいかった。

夜は時々当時流行っていたアイスクリーム〈レディーボーデン〉を入れ物ごとかかえて弟と食べるのがたのしみだったが、弟はおねしょをしてしまうから、とたくさんは食べられないのでちょっとだけかわいそうだなと思っていた。

その頃の写真を見ると、ワタクシも弟とさほど変わらない幼い顔をして写っているが、当時はそんなふうに姉らしく思っていた記憶がある。

相変わらず3歳下の弟と二人きりの朝食と夕食。

それが通常なのでそんなものだと思っていたし、7時を過ぎないと母は2階の自宅へ上がって夕食の支度ができなかった。

もっと遅い時間になると、おやつもなかったので弟が 

『ねぇちゃん、お腹すいたよ~』 と、同じくひもじいワタクシも母の料理らしい料理を見たこともないので、どう作っていいのかまったくわからない。

小3の子どもの知識と経験では到底無理だった。

ご飯は当時、ガス窯で炊く時代だったので(これまたおいしい)ガス管とか危険な大人の聖域を恐れていたが、背に腹は代えられない。

母にやり方を聞いたり、見たりして自ら覚えていった。

最初につくった食事は味のない〈スパゲッティー〉

〈パスタ〉ではない(笑)

ケチャップが足りなかった味と麺が固かった感触が口の中でじゃりっと音がした。

『ねぇちゃん、まずい…』

確かにすごくまずかった。

弟はお腹がすき過ぎて、泣かれたことも何度もあった。

一生懸命つくったのに食べられないものしか作ることができなかった、こっちが泣きたいくらいだと何度も思ったものだ。

何がいけなかったのか、母に聞いたけれど忙しく追い立てられている耳には入らなかったであろう、答えは返ってこなかった。

この時の教訓として 『教わることは何ひとつないんだ』 『自分で見つけるしかない』

このことはしっかりと今でもワタクシの人格形成の軸となっている。

悲惨な状況とも感じたこともなかったのは、時々父が家族に溶け込む手段としての〈外食〉が唯一の至福のひとときだった。

洋食にあこがれていた当時は〈グラタン〉〈子牛のステーキ〉がワタクシの大好物。

もうそのレストランはなくなってしまったが、ワタクシの記憶には鮮明に刻印されている。

グラタンのお店は、ホワイトソースがなめらかで味も深くチーズの焼けた香ばしい匂いにやけどをしながら食べたものだ。

子牛のステーキは当時1500円だったと思う。

高いものなんだという認識もあったけど、あの美味しさの前には遠慮などない。

あの時の子牛のステーキにはもう出逢えないであろう。

条件つきだから。

〈ぞうりハンバーグ〉と家族では別名で呼ばれていた、特別なハンバーグがあった。

夕食を済ませてTVを見ていると、母からその〈ぞうりハンバーグ〉が食べられるから行こうと言われ、さっき食べたばかりのお腹と相談した。

会社に出入りしていたオジサンたちから噂に聞いた〈ぞうりハンバーグ〉に逢えるんだ!

悩んだ挙句、こんなお誘いはそうそうない。

オジサンたちと一緒に弟とついて行くことにした。


蝶ネクタイの黒服のウェイターが入口で待機しているレストラン。

床は大理石貼りで夏でもひんやりした雰囲気は、一瞬で子どもを黙らせる威力のある内装のレストランだった。

入口はドーム型になっていて、石でできた壁面は滝のように水が流れ、たしかションベン小僧か天使の像があったようだ。

大きな観葉植物が飾ってあり南国のような異国情緒漂う、田舎では珍しい高級レストランだった。

仕事の話しをしている父とオジサンたちから離れて座り、個室での薄暗い部屋の床からの間接照明でどこか落ち着かなかった。

ウェイターが大きなハンバーグがのった鉄板とじゅーじゅー音をたててやってくる。

すごく緊張して待っていた。

目の前に自分の顔よりも大きなハンバーグだ!大人サイズのぞうりそのものの形だった。

〈うわ~すごい!〉

弟が大きな声で身を乗り出し、はしゃぎ出した。

〈ダメ!静かにして〉

と姉は制止。

お腹がすいていないのにこの特別なハンバーグをどうやっつけるか、ぐるぐると頭を動かした。


今でも味を思い出せる。


結局300グラム以上あったであろうハンバーグをワタクシは夕食後にたいらげたのだ。

これが原因となり〈大食い〉がさらに定番になったが、太らない体質だと家族も自分も当時は思っていた。

今度はお腹をすかせて行きたかったが、こちらからの要望は聞き入れてもらえるほど贅沢はできなかったこともよくわかっていたし、何かの特別な仕事からみの気まぐれなハプニングをいつかいつかと心待ちにしていた。

貧乏だけど、時々贅沢な特別なことがやってくるこの不思議な家。

この家庭の居心地は悪いが、ナイフとフォークのちゃんとしたレストランへ月に数回は連れていってもらえたので、普段のそれは気にさわらなかった。



〈嬉しいことは自分のタイミングでやってこない〉


これは生きていく上でとても重要なメッセージになっていった。






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by fairytalem | 2013-09-14 14:22 | つぶやき

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