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若き日の記憶の旅12

~特注家具設計管理編~


人生で忙しい時期が何度かある。

ワタクシの場合は、20代後半のコーディネーター兼苦学生の頃と特注家具設計管理のお仕事をしていた頃と、現在であろう。

当時のワタクシのお題は設計士になること。

1級建築士にはなれなかったが、二級建築士の家具の管理設計士にはなれた(笑)
とても安月給ではあったが、とりあえずなれた。

都内のお仕事がメインだった特注什器やオフィス家具など特殊な設計をする群馬県内の設計管理会社に勤務した。

このお仕事は今までのお仕事よりも、さらに過酷だった。

家庭持ちの男性が逃げ出すくらいの重労働と要求レベルの高さというか、今思えばめちゃくちゃな会社だった。

何でも仕事はやらされた。

できないなんて言えないし、負けず嫌いだったから言わなかった。

それに、やらせてもらえるんだから…


一流の企業の家具の修繕から、都内私立中学の家具製作、東電の電力館のカウンターなど、プレゼンのパース画も描かされたり、TOYO○Aショールームの飾り棚や、ファミレスフランチャイズの指定カウンター制作、岡○○郎美術館の貯蔵空調システム収納、IB○の副社長室書棚修繕、なんでも。

どれもワタクシには、たのしいとしか言いようのない仕事だった。

ただ…なんでもやるというところが、凄まじかった。

2トン車を運転なんて当然。

首都高をトラックで運転。ナビなんてない時代、マップ確認は前日に頭の中に叩き込む。
できなかったら、付箋紙貼ってナンバリングしておかないと…アカン、現場行けない。

新設病院の建設で、静岡まで什器を梱包し、トラックに積む作業は女性の私にはかなりきつい作業で、当時は10キロ痩せた。
酷い肉体労働になってしまうときは、1日で5キロ体重が落ちたときは倒れ込むような疲労が襲った。

梱包し荷台に積む作業は男性社員も手伝ってはくれるが、基本担当者責任。

家具の塗装がはげたりしたら、、速攻家具を積んで修正依頼かけ納期を厳重注意約束させ、またスケジュールに合わせ引き取りに行き現場納めには、鳶職人さんなど必要な技術者も同行させた。

交渉を職人とするのは、本当に骨が折れた。

職人さんだから頑固もがんこ。譲らないし、こちらの小娘の要求なんて聞いてくれない。
1級彫師ともなると、もう先に謝るしかない(笑) 今思えば笑える話だが、当時は神様でも拝めるかのようにご機嫌も伺い、必要とあらば作業場の掃除までやっておく。


溶接を依頼する鉄工所にも頑固な職人がまだいた。

そこには義理人情なる群馬気質の特性と、職人気質の相乗効果のようなものがあり、そのへんを理解できないと仕事がうまく進まない。

最初の頃は、ほんとうに相手にされず意地悪されたものだ。

納期なんて無視、引き取りに行っても空振り、、、

交渉のコツや進捗確認も欠かさず、きちんと足を運んで進み具合を見て、労をねぎらった。
特注家具ともなるとビス1本だって、特注レベル。
そう、1からすべて制作するという経験を積めたわけです。
パキスタン人や東南アジアの外国人労働者を雇っている金具やビスなど鋼材の製造をしてくれる下請け町工場へ、設計図を持って社長と交渉し、完成部品のチェックは自ら。
相手先に任せていたら、いつまでも作り直しのローテーションにはまるだけ。
造りの甘さを指摘すると、パキスタン人に逆切れされたり…女性であるゆえの怖い思いもたくさんしました。
そんな脅しや嫌がらせなんてひるみもせず(実際はちびりそうだった)強い、頭脳派を装ってきっぱりと命令調に指示する強さを持ち得ないことには、完成品を最終顧客に引き渡すことが完了しないのです。




200キロ以上ある什器を運ぶ途中、手が滑り、木製だったことで反射的に自らの足を差し出し、足の甲から打撲出血、捻挫してでも什器を守りました。

落としでもしたら木製の美しい角が折れ、再び群馬へ高速でトラックに乗せて修理に持ち帰ることになるのを避けたかったからで、自虐趣味があるからではない。

病院の特注取り付け家具を各階に配置するだけでも、大仕事。

派遣会社から学生バイト君を雇い、図面を各階に貼り、運ぶスケジュールを分刻みで実行させるのも大変でした。
相手は素人、遊んでいるバイト君はリーダーに伝え、次はメンツにいれないように指示。
冷酷と思われるかもしれませんが、現場って時間で管理されているのでそんな甘えたことは通用しないのです。予定より早く収め、また依頼していただけるように清掃もしっかり指示して、時には自ら率先して完了させる実行力判断力はかなり鍛えさせられました。


ある時は、完成品チェックをしていたら、作り付け収納棚の裏面の色が落ちていることに職人さんの息子さん(バリバリの現役ヤンキー)が発見。
裏面だし、わからないかと言い出したので、イヤイヤだめでしょ、と。

ホームセンター行ってくるわ、と知らない土地だったのでいろんな人に聞いてたどりつき、何色かペンキと刷毛を購入。

もう夕刻になりそうだったので、急いで調合。乾燥後色の変色をヤンキーとあーでもないこーでもないと検討して、塗り終わり帰社。

いまだにクレームはありません(笑)

その後、ヤンキーから現場行ったら、完璧ないい仕事だったと言っていましたが、、この件に関しては本当かわかりません。


年下の先輩独身女子には、かなりイジメられましたね。

仕事はよくできたRさんは、まだ20代で若く筋肉質のぽっちゃり型で、体力もあるし、図面を引くのも早く、頭の回転も早く、何よりも人に仕事を流す天才でした。ずる賢いというのも、才能なのかもしれない…そう思えるくらい。

ある時は、トラックで大物家具納品の助っ人で同行させられたとき、基本担当者責任のはずが、行きも帰りも運転させられた挙句、ずっと運転が下手だという文句をいろんなバージョンで攻め立てられ続け、気が狂う寸前まで人を追い込むのが趣味であると後にわかるのですが、一度も反抗せずに笑って受け流すという技術をここで身につけました。
しまいには「○○○さんて、頭悪い?」とも言われたほど、一切落ち込む様子や、傷ついた表情も出さず、怒りもせず受け流し、ときには謝り、気が済むまでやりたい放題、許しました。

最後はどうなったか?

ワタクシはバカじゃないということは、わかったらしいですよ(笑)


あるとき、都内支店上司からの依頼で、電力館のパース画が描けるか?ということで、Rさんはうまく描けず悪戦苦闘していたので、「よかったら私が描きましょうか?」と助け船を出した。

サラサラと美しい線を久しぶりに描けて、気分よく完成させ、インキングし、色も少しのせて上司へ送った。

上司も絵も描けるし、かなりの設計技術者だったので、そのパース画の依頼を境にワタクシに対する態度も激変した。

「お前、どこで勉強した?なにができるんだ?」
「え?なんでもやらせていただきます」

人を認めることはないと言い切っていた偏屈設計技師でもあったが、最後の方は色々と本音も聞けたし、明らかに彼なりに認めているという態度もあって、ここで忍耐することの意味の多くを学んだと思う。

信頼関係になることとは、相手を認めることでもある。
相手が自分の懐へ入っていることで、貴重な情報や独特の思考、見ている世界観などが伝わり、同じ人生でも共有した気になれたことは進化でもあったと思えるのだ。

上司の態度の変化にRさんは、ショックを受けていたのもわかった。
まだRさんすらそんな扱いになっていないということに強い憤りを露わにこちらへぶつけてきた。
パース画の原画を前に、ワタクシをわざわざ呼び、

「これもう終わった仕事だし、下手くそなパース画だから捨てるわ」

と言い、ビリビリに破り投げ捨てた。

「気分どう?くやしい?」

「いえ、言われたようにもう終わった仕事ですから。」

そのあとは一瞬身構え、飛びかかってきそうな怒りが瞬時にあたりを立ちこめた。

「どこで習ったの?」
「本屋さんで作図法を読んだだけで、習ってません」
「エアーで色を付けるなんて、習ってたに決まってるじゃん」
「いえ、それも本屋さんで…」
「嘘ばっかり!あんたにそんなことできるわけないじゃない」

「…そんなに上手だと思ってませんし、今は描くのは興味ないので…」

笑いながら出ていってしまった。。。


美術館の貯蔵システム納品時は、あわや死にそうになった事件も起こった。

嫉妬だけで、人をどこまでも突き動かすことができるんだという恐ろしい体験をした。

美術絵画などは、空気調整ができないとその美しい絵の具を維持できなもので、密閉させた大きな箱型のショーケースのようなものを制作し、現場調整に職人さんを引き連れて都内へ移動してきた。
作業も終盤を迎え、そろそろ貯蔵内の細部の収まり調整を終えて、夏場だったので汗だくになりのどの渇きも限界に達しそうなときだった。
バタンと外鍵式の重厚なドアが完全に閉まってしまった。
振り返ると、Rさんの後ろ姿が遠のいていった…
あぁ、また意地悪をしてるんだな、とそのときは気にもせず、もう少しで終わる作業を進めた。
しかし、30分、1時間と経過しても誰も来ない。
携帯を持っていなかった時代だったので、冷や汗も出てきた。
暑さで蒸し風呂のような状態になり、意識も朦朧としてきた。
このまま死ぬんだろうな…と、思った。



ドアがバーンと開いて、鳶職人の息子ヤンキーが、「大丈夫ですかー?」
と、助けてくれた。

「あいつだな。ひでぇ、なんて性格してんだ」

「それより、飲み物が…」

水分のありがたさを実感した。

社長に報告しましょうか?とヤンキーが心配してくれたが、それには及ばないと、大丈夫のジェスチャーで早く帰社するように促した。


Rさんは、薄暗い館内の照明に照らされて、ニヤっと笑い 

「あんたがのろまなんだよ、仕事しないで遊んでいい気なもんだね」 

と一言、言い放ってライトバンの指定席の助手席へ乗り込み、腕を組んで寝てしまった。

本音は怒りでいっぱいになりそうだったのだが、なぜか彼女の捨て台詞を聞いて気の毒としか思えなくなってしまい、静かに帰った。

のちにRさんから聞かされた武勇伝の数々は、イジメは快楽であるという話しだった。

それは、愛されないという自分を慰める手段として、憂さ晴らしとしての弱い立場の人に虐めをすることで解消させているようだったが、実際はどんどん泥沼にはまり込み抜け出せなくなっている哀れな姿だった。自分を愛してくれる男性が今までいなかったのだと思う。本当はそうじゃないんだろうな、なんだか寂しい人だなと思った

その後、経理の既婚女子は入社し、ターゲットは経理女子へ移っていった。

経理女子はよく喋る、女性らしい女性だったが、気も強く頼もしかったのは私の分も言い返してくれた(笑)
おもしろいことに経理女子が苦手とみえ、Rさんは虐め力が発揮できなかったようだ。
頑なな人とやっていく経験は多い方なので、受け側へ自然とまわり、エンパス気質がそんな場面では有効に活用されたのかもしれません。


相手にものを言うのなら、ワタクシなら…仕事内容で結果を出したかった。
当時は軟な女性に見えたのか周囲の職人さんや社長からも仕事が続くのか、仕事をやりきれる能力があるのかかなり疑われていたのが、とてもくやしかった。

何か陥れるようなことを言われたなら、受け取らずただ黙って聞き、目の前のやるべきことを黙々とこなす。
ここで、怒るとか凹むとかはしない、と決めた。

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結果的には、この仕事は体力的に長くは続けられなかったが、やむなく病院通いするほど肉体的にも消耗しきり、発病してしまったため半年静養をした。


ひとつの仕事の売り上げから経費、粗利計算をして会社利益を自己責任で出していくこと、数字で利益を出していく実感は、おもしろくて仕方なかったせいで充足感ありました。

会社経営としては、ぶっ飛んでいるな、、という感は否めませんが、経験させてもらえたことはよかったです。

それはすごく、エキサイティングでやり甲斐のある、ワクワクすることでもありました。

惨めで何もできなかった当時のワタクシは、人との繋がりで解消され、やがて助けてくれる頼もしい先輩、尊敬する職人さんに変わり、仕事を通して伝授される技術や考え方など、今思い返しても素晴らしい体験でした。


きっと変わったのはこのワタクシ自身の意識です。

女性である、OLであった、デスクワーク得意で筋肉ない、甘々なワタクシのキャラから、真逆の自分開拓。

ある日を境に、職人さんたちと共有できるようになった瞬間に、どっと流れ込んできた感じでした。


今は享受した無形の喜びとともに、お返ししていくことができる時期になったのかもしれません。


ワタクシの忙しい20代後半は、そんな素敵とは言えないけれど(笑)


とても ドラマチックでもあったわけです。





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by fairytalem | 2015-11-02 09:56 | つぶやき | Comments(0)