カテゴリ:つぶやき( 102 )

感動に勝るものは何もない


こんばんは、Fairytaleです^^


ソチオリンピックで睡眠不足のままお仕事に向かい、帰宅しまた睡眠不足…

といった状況ではないでしょうか?

昨日はさすがに仕事をしながらフィギュア…という体力も尽き、12時前に就寝、6時間の睡眠を確保しましたのでエネルギーチャージまでいきませんが、だいぶ回復してきました。


真央ちゃんのフリーでの渾身の演技は、あのショートがあったからこそのフリーでの収穫だったのではないでしょうか。

メダルより真央ちゃんの笑顔や涙が感動を生みましたね。

競争社会の縮図を垣間見ました。

ワタクシたちは人と違うことを前提に、自分らしさを失わずいられることがいちばんです。

順位なんて本当はどうでもよいことで、得点の基準だって色んな一部の都合で変えられてしまうことで順位がかんたんに変わってしまいます。

こんなにも感動を与えてくれた演技ができる真央ちゃんでいいではないですか。

皇帝プルシェンコもトリプルアクセルに果敢に挑んだ真央ちゃんを賞賛していましたし、銀盤の妖精でしたっけ?違っていたらすみません、感動を与えた演技を誇りに思うとコメントしていましたね。

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…画像は拝借~

感動に勝るものはない!


なのに古いふるい政治家のおじさんは、結果やそれにもたらせる利益追求思考の塊のような、残念な発言でした。

この古い思考では、これからの未来は切り開いている力は一滴もありませんよ。

沙羅ちゃんも真央ちゃんも大きな期待という目に見えないエネルギーの渦に巻き込まれてしまったのは、仕方のないことです。それだけ、感受性が強くだからこそここまでの成果も出せてきたわけでもあります。


まったく、おじさんアナタがトリプルアクセル飛んでみ~っ

世界で飛べるのは真央ちゃんだけなんですけど?




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by fairytalem | 2014-02-21 18:59 | つぶやき | Comments(2)

ドキュメンツストレージ☆レッスン完成画像

こんにちは、Fairytaleです^^

今日は《雪》の気配を感じながら、まだかまだかと曇り空を見上げています…
あともう少しで降りだしてきそう。。。

アトリエは20畳以上の広さがあるので、ストーブでは空気が暖まるまで時間がかかり、お昼になっても寒いので事務所へストーブを移動させ、エアコンと併用でなんとなく暖かくなってきました。

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先週末の【ドキュメンツストレージ】単発レッスンの作品完成画像が携帯から送られてきました。

スワンちゃんエンボスに、ピンクをベースに、淡い黄緑のペイズリーの内側生地とお花柄メイン生地で、
とってもらぶりーな仕上がりになっていました。
カルトナージュ教室を主催されているN様は、人生でも、カルトナージュでも先輩です。
ワタクシのようなものでも学びがあると謙虚に仰ってくださり、頭が下がります。
やはり仕立てもきれいですし、細部は何も言う必要もない腕をお持ちですから、こちらが教わっているような錯覚をおこします。

落ち着いて作り込める力は経験と目的意識によるものと思います。
これから講師を目標にされる方や製図コースでの生徒さんには、とてもいいお手本になる先生です。

前橋での体験レッスンでは、ご近所の田舎マダム(これまた手強い!)相手に、毎月1回のレッスンで中級レベル作品に取り組んでいたため、レッスンの進捗具合のずんどこさ加減や、1カ月経つと忘れてしまうやり方をまた教えるという…ここは養老施設ではないか?という、決して大げさではない、何重苦にもなるレッスンをやっていたことが随分と昔のことのように目を細めてしまします。
このレベルの違いには大笑いしてしまいますが、今となってはそれもなかなか面白い経験です。
やる気のない初心者の初老マダム(群馬のという形容詞がつくと頑固さや融通のきかないというニュアンスもプラスされる)から、レッスンを円滑にするためのアイデアがたくさん得られたという意味において、ワタクシはやはりラッキーであったと思います。
やる気のない初心者さんってところが、ポイントです(笑)
いかに興味を持ってもらえるか、魅力を感じてもらえるか、誰も同じ精度になるような工夫はできないか…
具体的なモデルとなって円滑にレッスンらしくなるように工夫を凝らしたレッスンでした。
1つ言えることは…この斬新なレッスンでは上達しない…のです(*_*)
ワタクシのスキルだけは確実に上がっていくというのは言うまでもありません。

あのときのワタクシの肩にポンっと手をおいて『おつかれさま~』 って言ってあげたいですね。

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クリスマスカードの宛名書きをして、雪だるまのイラストの50円シールを貼って、ポストに投函。
3年目のキットショップも、常時オープンが来年2月を目安に実現できそうです。

キット屋さんは気に入っていて好きな仕事です。
カルトンカットは皆さん苦手、ということをやってみるところも自分らしい。
今回のオープンから強力助っ人となる、スタッフKさん。カルトンが到着しすでに山のカルトン♪
ここからのウェーブカットはワタクシの作業です。

この光景はいいもんです。
こんなにある山は必ずなくなっていく…と思うと、じ~んとありがた~い気持ちになります。

ハンドメイドのカルトンカットのつくり心地の良さというものをお伝えする、と決めた日から、
最近になって手切りのカットがいかにいいものであるか、手にとって組み上げてつくられる人から
『きもちい~い』 と言っていただけること。
フィット感やピタッと感が機械裁断のエネルギーにはない、人から人へ伝わるエネルギーだから
それに共鳴しているんだと思います。

月日が変わっても、その原点は変わらないのだなぁと、気付かされます。


さて、下準備はできました。

明日から本格的にカット作業に入ります。

…手と腕が持ちますように。



急激な寒さやってきますね。

皆さん、体調管理に気をつけてください025.gif




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by fairytalem | 2013-12-18 15:46 | つぶやき | Comments(0)

若き日の記憶の旅8~家業を継ぐ編~

こんにちは、Fairytaleです009.gif


大手を振って広告イベント会社のOLを辞めて、しばらくは2LDKのアパートでのんびりとドラクエでもやって過ごそうか…などと考えていましたが、次の職場は建築関係のコーディネーターか設計の仕事に就くという目的があったので、遊んでいられるほど余裕もありません。

実家の父とはあれから2年以上絶縁状態…

よくよく考えてみると仕事を辞めてよかったと思っていたのは束の間。

少ないお給料から家賃と車のローン、ガソリン代、まったく貯蓄すらありません。

食べることはギリギリ節約料理で乗り切ってきましたが、これから学費がのしかかってきます。

すぐに現実の世界へ引き戻されました…

〈やばい、働かないと食べていけない!〉007.gif


焦った自分のとった行動とは…?

父へ仕事をさせてくれと電話してしまったのだ!

選りによってそっち?!

仕事を辞めてしまった高揚感で、あの時の自分はどうかしてしまったとしかいいようがない。

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父はそれなりに娘が家業を手伝うことに喜んでいた様子で、役所でも取引先でも連れて行かれ、娘を紹介しまわった。
水道工事業の世界はまったくど素人の上、現場での土掘りの作業で女性を見ることはそうない。
ワタクシも力仕事は向かないし、できたらやりたくない仕事だと思っている。
女性社長のある会社では、「土工」「土木工事」を女性社長自らスコップで掘るという噂を聞いたことがあるが…ワタクシには、無理を感じてしまう。
それは完全なる男性社会の縮図をその現場で展開されている様を見る度に、ワタクシたち女性の隙間すら存在すら不要といった力仕事は、危険であるためピラミッドのように指示する者から作業を分担する者が大声をかけ、実施する作業工程はもう見る事すら許されないような気持ちにさせるのだ。
これは大人になってもここの会社の一員になっても、疎外感を強く感じた。


男性社会の業界でのワタクシの奮闘は、ときにはおろかな行為にしか見えないのだろうが、曲がったことが嫌いな性質ゆえ、どこでも勃発しては父に抗議をしていた。

それは市役所でも水道局でも、警察でも…
あ、間違っても警察では道路を掘削するため、道路使用許可申請という書類を提出するので、お世話になったなんてことはありませんよ。015.gif

現場は当然エリア外だったので、それ以外は全部やることになった。

軽トラに乗って管工事業組合で、材料を調達するのだか管や管の継ぎ手の種類が結構あって、名前を覚えることからはじまった。

若かったし、すぐに覚えた。

軽トラに乗せるのは組合のおじさんが手伝ってくれるので、力仕事というほどでもなかった。

人によっては立派な力仕事だというかもしれない。

そして経理はすべてやってみた。

簿記はうっすらとしかわからなかったので、母から教わった。

「簿記を知らないで経理の仕事よくやってこれたね」と半ば呆れたように言われた。

簿記もすぐに覚えた。

母の教え方は独特で、こちらの認識状態を気にせず〈いきなり〉始まるのだ。
中学1年の時、音楽のテストで楽譜がよめず、テキストをみても深い理解できず、その時母は自称〈音楽は得意〉というので、試しにテスト範囲を教わったのだ。
…その時のテストはクラスにピアノを習っている女子2名と県内3位になった幼馴染の男子を抜いて、ほぼ満点となり、後に〈母のおかげ〉と語りぐさとなった。
後にも先にも音楽での高得点はこの後数回あっただけで、元に戻った(笑)


会計士相手は母が月に一度、月次訪問監査といって、経理処理をチェックし試算表(損益計算書、貸借対照表など)を作成し、決算時期となると夜までかかって会計士が事務所にいることも多かった。

ワタクシはこちらの方面は遠慮させていただき、銀行関係や集金、請求書をあげる、という事務仕事の他に、図面作成から、役所や警察に申請物がある時も書き損じがないように書類に不備がないか確認して提出することや、大きな工事の見積もりはその日のお昼までに大量の内訳を算出しなければならない仕事が大変だった。
管材屋さんへ見積りを出し、さらにこちらの算出方法のマニュアルがあり、それに当てはめて計算をしていく。
ちょっと最初は難解だったが、これも1カ月たたないうちに慣れ、お昼前にキレイな手描き見積りに仕上げられるようになった。
この時代はパソコンではなかったので、きれいな文字と数字が書けないとお仕事にはならなかった。

布設工事といって古くなった大きな道路にある本管の上水道管を新しく埋設する工事が一番金額が張った。広告会社の物件の単位より1ケタ多く、その規模を見ないと書面上ではよくわからない架空の工事にしか感じられなかった感覚だった。

下水道工事もあった。
田舎の一部地域では所帯数に対して下水道を配備するため、密集していない家の場合はほとんどが、浄化槽という数世帯分の浄化する大きな装置掘り埋めて下水処理をさせるのだ。
この大きな装置の中のしくみがおもしろかった。
微生物に処理させるので、なんてアナログなんだろうと思ったものだか、とても理にかなっていた。
浄化槽のことはカタログやメーカーからの資料で勉強したので、セールスできるくらいの知識にもなった。
知らない機材やめずらしい機械モノも読み漁っていたので、知識だけはもっていた。


配管図や申請図面も自ら書くので、外注に依頼する必要はないと宣言をした。

これで利益がまた増えた。

この時、考えてみたら初めて図面を書く経験をしたのだが、絵心があったのですんなりと図面を理解して道路の図を書きあげた。
この時に製図用のドラフターを初めて使ったわけだ。
子どもの頃は父用のドラフターが1台しかなかったのが、その頃には3台ほどあった記憶がある。

なのに、外注依頼不要とはよく言ってのけたものだ。

未回収の工事請求が一千万以上あった帳簿を見逃さなかった。

今度はこっちをやっつけてやろうとターゲットをしぼった。

再請求書をどんどん送りつけた。

予測通り、電話もせず送っただけで数社から数百万回収できた。

父は不思議がっていたので、再請求書を送ったことを告げるとものすごい剣幕で怒られた。

ここの考えはまったく違うので平行線のまま、もうすこしで1000万近い未払いが回収できる目前だったのでとてもくやしい思いが残った。

それでも、父の経営方法は間違ってはいなかった。

若かったワタクシには検討もつかないほどの、深い思いがあったのだろう。

相手方の状況をわかって留めておいたのだ。

24のワタクシにはこのことを理解できるまでもう少し時間がかかった。



どんな企業でも10年後残る確率は1%という。

今では同業者もどんどん潰れて大手か零細の一部が残っただけだ。

父の会社も残ったのだから、やっぱり間違っていない経営方針だったと思うのだ。



結局、この未回収の件で父と大ケンカをして、会社を辞めた。

たった5カ月の出来事だったが、父や母が社会的に働く姿を見るいい機会だったと思う。

普段は威圧的で笑顔なんてみたこともなかった父は取引先では腰が低く、よく笑っていた。

いつもの父ならすぐに噴火する場面でも社会的な場所では信じられないほど温厚な態度に衝撃を受けた。



また母の小切手や手形を手動でくるくる回して切る時の連打はものすごかった(笑)

普通、間違えないように慎重に数字を確認してゆっくり切るというものを。。。

今はチェックライターを使うのだろうが、昔はこのカラカラと回す音と印字する時におろす音のこぎみ良い風情というか、情緒みたいなものがあった。

母は 『計算機は好きじゃない』 と、これまたものすごい速さでせっかちに、そろばんをはじく。

合ってるのか?と疑うまでもない。

あの人に間違えなぞ、ない…ははっ。021.gif

経理の仕事をしてきて、母を超えるユニークな人を見たことがない。

なんでも早く、無駄のない動きのうえに、そして正確だ。

こちらは金額のこととなると、緊張して何度も確認しても間違えるときがあるというのに。



ワタクシは一瞬でも一緒に仕事ができたことで両親の姿を改めて子ども目線から大人目線で認識できたということはラッキーだった。

弟は残念ながら両親のそういった姿をちゃんと知らないせいで、未だに大きな口を利いてしまうのだろうか?…ということにしておこう。




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by fairytalem | 2013-12-10 17:21 | つぶやき | Comments(0)

若き日の記憶の旅7~そりの合わない祖母編~

こんにちは、Fairytaleです001.gif

祖父がいなくなった空間で家族が集まり何日か会議をした記憶がある。

おばあちゃんが独り暮らしに慣れていないという話しを家族会議での会話から察し、週末の土曜日は4年生の11月から6年生の卒業する3月までおじいちゃんちゃんがいなくなった家で、あまり反りの合わないおばあちゃんのところへ自ら毎週ひとりで泊まりに行きました。

友人との約束はすべて断って、なぜかおばあちゃんちへ行かねばならない使命感みたいなものがありました。

そういえば、親友のぶーよんとは一度祖父が健在だった頃、近所の県営球場の巨人のオープン戦のチケットを入手し、祖父が保護者として同行してくれたことがありました。

とても幸せな時間だったので、強く記憶に残っています。

大好きな人に囲まれた時間は同時に強い恐れに変わるという瞬間を憶えています。

大の巨人ファンだった祖父は選手を見て、○○だ、と指差しして普段は感情を表に出さない大正一ケタの祖父が嬉しそうに観戦している姿とぶーよんを交互にずっと見ていた記憶しかありません。

「あぁ、自分中心に二人がここにいてくれる…」 その実感はやがて恐れに変わるという不思議な体験をしました。

試合の途中で絵画教室へ行く時間になり、祖父とブーヨンを後に別れたのも、とても気持ちを落とした記憶が同時に残ります。


そんな些細なことでも、残念な記憶はなぜこうも残るのでしょうか。

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年寄りという生きものは、自分中心の思考が強く、自分がおかしいとか悪いとか絶対思わない逆ネガティブ思考。このマイペースな引きこもり系おばあちゃんの独特の思考は、成長期のワタクシに多大なる影響を与えることとなった。

例えばである…隣に八百屋さんが密接して建っているのだが、生活感も伝わることもありおばあちゃんの観察は相当なものだった。

売れ残った野菜やくだものを傷む前に値引きして売るということを絶対にしないスタイルの八百屋さんでした。

傷んで腐ってどうにもならなくなったものは産廃業者が引き取るというわけでないので、裏庭がおばあちゃんちの裏と地続きだったこともあり、その衝撃的な事実まで近所というのはわかってしまうわけです。

大きな穴を店主が休みの日に掘り、売れ残った野菜やくだものを放り込み、土をかけて蓋をする…というのを何十年も繰返していました。その異臭は夏場はとても住民にはきつかった、という点ではよくありませんね。
祖母の気持ちもわかります。

安く商品を売らないのは、当時箱売りを得意として店頭で飛ぶようにみかん箱やリンゴ、お米といったものが贈答品もあったので何箱も売れ、大儲けをした先代のやり方があったのです。

当時はその商法がめずらしく、時代の流れで経済成長も手伝い、この商法が当たったようです。

その先代も引退して間もなくすると、痴呆になり別人のように自転車に乗って遠く東北まで行ってしまった…とか、ゴミを拾い集め自室はゴミ屋敷化し、臭いまでただよってくる…というちょっとした事件にもなりました。

小学生だった4年ワタクシは、ボケてしまった別人の先代と先代の曾孫の幼馴染とつるんで、八百屋さんの本家の離れに隔離された先代の部屋へ遊びに行ったりしていました。

なぜ、子どもとはそんなところを好んで行くのか…なんて理由は、引力の関係とでも言っておきましょうか(笑)

衝撃だったのは、先代の部屋にあるタンスの引き出しを曾孫の幼馴染が開けると…
中からよくわからないゴミがぎっちり入っていて、ぼろぼろと出てくると、もう小学生ですから「きゃ~」といった具合で軽い遊びをやっていました。

店主の嫁(今は80代のおばあさん)に真っ赤な顔してよく怒られました。


でも幼馴染と自分は気持ちがあったので、寧ろ嫁が痴呆の先代をけむたがっていることが子どもの目からすると辛辣なものを感じました。

ワタクシたちは、なんだか気になる先代の曾おじいさんの部屋へ時々遊びがてらに行っては、葉っぱを加工して遊んだり、完全にボケていない時はお話しもしたりしてトンチンカンな会話をおもしろがったりもしましたが、痴呆という加齢による誰にでも有りうる現象を目の当たりにして現実を小学生なりに観察したものでした。

あまりにも汚れがひどい時は先代の娘である幼馴染のおばあさんが掃除に行き、ワタクシは他人ではありましたが一緒に掃除を何度もしました。

相当な臭いと汚れとゴミで…それはもうゴミ屋敷よりももっともっとすごいものがありました。

失禁もあったようでその臭いは大変なものでしたが、我慢して幼馴染と鼻をつまんで掃除をよくやりました。

うちのおばあちゃんはやめておきなさいといった感じだったと思いますが、聞く耳はないので好きなようにやっていました。

それから1年もたたなかったと思いますが、先代が永眠し、他人のワタクシでも幼馴染と離れの部屋まで何回か行き「こんなことあったよね(笑)」とか話したりして子どもなりに先代を偲んでいました。

先代の商売センスの恩恵があって立派な御殿が裏に建っており、そのずっと奥の堀川沿いにその離れの部屋があり、そこへ行くまでの間に立派な鯉がたくさんいる庭園を抜けないと行けない造りでした。

先代が亡くなってからワタクシたちの週末はもの足りない感じがあり、それを埋めるかのように立派な池の周囲に大きな石で囲ってあるちょっとしたスペースのある空間や石の間にどちらかが手紙を書いては、受け取り人は朝5時起きして見つけに行く…という夕刻に忍び込み手紙を隠し、早朝に見つけるというゲームを始めました。

鬼嫁がいる庭園に侵入するのはとっても子どもにはスリリングでこんな究極の楽しいリアルゲームはありませんでした。

それがバレるのは半年くらい先だったので、寒くなるまでしばらくは楽しんでいました。

嫁にバレるとお隣さんのおばあちゃんが代わりに怒られるという具合でしたが、それで祖母に怒られた記憶はありません。

寧ろ、鬼嫁が子どもの遊びを許さない姿勢に怒ってたようでした。

反りが合わないけど、そういう時はうちの孫はかわいいというわけですね037.gif

小学5年生くらいでそういう遊びは終わりを迎えました。


探検とか、ゲームとかそういった類いの外遊びよりも、幼馴染の家の階段脇の壁つたいにぎっしり詰まっている漫画本の方が魅力的になっていきました。
それからは引きこもりの遊び中心となり、そのうち1つ年下の幼馴染とその妹は3つ下ゆえ、つまらない遊びに感じるお年頃になるまでそう時間はかかりませんでした。

相変わらずおじいちゃんの居ない空間で過ごす週末は、特別なことは幼馴染とリアルゲームをしたことくらいで、年寄りと過ごす時間の退屈さは相当なものでした。
週末は宿題を持って、月刊少女漫画なかよし発売日が土曜だったのかな…それを買って泊まりに行きました。

当時はTVがそれなりに充実していて、おこちゃまは5時からずっと見る番組があったのです。
夕方になるとTVはお相撲さんを引退した龍虎が「おいしいですね」しかコメントを言わないのが売りという今では笑えない料理番組が人気を博していました。司会が吉村真理の「料理天国」という長寿番組がありました。
「まんがはじめて物語」で歴史漫画のタイムトリップし、その後「ヤッターマン」を見ていると夕食になりました。
夕食は母の一番下の叔父さんの好物がよくテーブルに並びました。
下の息子が相当かわいかったのでしょうね。
夕食は近所の総菜屋のコロッケや、時々豪華なまぐろのお刺身が食べられましたが、おばあちゃんのお味噌汁が一番おいしかったです。
すごく丁寧にゆっくりつくるんです。
多分、器用な人ではなかったのだと思いますが、丁寧につくるのでとても味はよかったです。
母はそんな祖母をノロイと言っていましたが、ワタクシはおいしいお味噌汁の方が断然いいとずっと思っていました。

遠足に遅刻するほどお弁当づくりが遅くて間に合わず、毎度イライラした話しを聞かされましたが、でもきっとおいしかったんだと思うんですよね。

そこの大事な部分が抜けている母を少し疑いの目で見ていました。

夜は、小学生には遅い時間の9時から渋めのドラマ「ちょっとマイウェイ」主演桃井かおりと緒方拳、八千草薫、研ナオコ、岸本加代子という豪華キャスト。これがたまらなく良かった小学生でした。オープニングイラストが漫画家の倉田江美で、主題歌が「夜明けのマイウェイ」という曲で♪悲しみをいくつか~乗り越えてみました~振り返るアナタの背中を追いかけてみましました~♪…あ、全部歌えるかも…
いいなぁ~昭和。
信用金庫(役名あだな)って、神田正輝だったんだ~わかーい。
懐かし~です~(T_T)
YouTubeで見ちゃいましたw…

演歌の花道だけはおばあちゃんにゆずってあげないと、ものすごい剣幕で怒られるので仕方なく「渋い演歌」を聴かされました。…演歌も歌えますよ…

夕方前には母と弟が迎えに来るので、使命を果たすため、ただただおばあちゃんの1週間分の愚痴をずっと聞き役でいてあげました。

今ならできませんねw

夕食は年寄りには理解できないコーンスープを何度も希望しましたが、牛乳とコーン缶が分離して味気ない単なる牛乳と沈殿したコーンを何度も味わう羽目になりました。
6年生頃になると分離していないコーンスープになりました(笑)

おばあちゃんとつくったのは「あんこ」です。

前日に小豆を水に浸しておき、煮るのです。

ワタクシの料理は…思い出しましたが、祖母から教わったものでした。

すっかり記憶から抜け出ておりましたが、ワタクシお味噌汁は自慢ではありませんが結構上手なんですよ。
おいしいお味噌汁ってありそうでないんですよね。
母のは…NGです(笑)

同じ食材でもどうしてこうも味って違うのか、不思議です。

カルトナージュも同じですね。

祖母とは反りが合わなかったはずなのですが…悪いことがなかなか思い出せません。
もう他界して90才で長寿を全うし、まさに水分が蒸発していくように老衰でした。

中学になりバスケ部に入部したためお泊まりはできなくなり、おばあちゃんが寂しい思いをしていたかもしれません。
もうその頃は思春期ですから、自分のことで精一杯になり、

たった2年ちょっとの毎週末のお泊まりは終わりました。





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by fairytalem | 2013-11-19 11:02 | つぶやき | Comments(0)

若き日の記憶の旅6~心の拠り所祖父編~



4年生の時に母方の祖父が胃がんのため半年くらいで亡くなった。

皆誰でも記憶では子ども時間とは長く感じ、また退屈な上、今から思うと矛盾を感じるようだが特別な時間でもあることに気付く。

群大で胃を半分摘出し、その後うちの近所の日赤病院へ再入院することになり、それから亡くなるまでの3カ月くらいおばあちゃんも一緒に会社のある2階自宅で生活をして、家から病院まで通っていた。

時々子どもの足では遠い距離を30分以上かけて弟とふたり、日赤まで歩いてお見舞いに行ったりしていた。

入院した時は確かワタクシは浴衣を着ていたから、夏だったのだろう。

病院は夜の時間で廊下には誰もおらず、がらんとしたSFの異空間のように感じた。

病室では熱を出して弱っている祖父となぜか二人きりの場面が1度だけあった。
二人きりになることは4年生でも緊張を感じる存在の祖父だった。
恐いからではなく、ワタクシを真正面に見据えいつも包み込んでくれる存在に照れがあったせいだ。
つき放されることには慣れていても、優しく見守ってくれることを受け取るのは苦手だったから。


季節は変わり、昔は10月になると手袋が要るくらい、空っ風が冷たく感じたものだ。

お見舞いに弟と行くと決まっておじいちゃんは〈ママに言ってきたのか?〉〈ううん〉〈暗くなると寒くなるから弟を連れて早く帰りなさい〉 とたしなめられた。

〈せっかく来たのに…弟を連れてくるのは大変だったのにな〉

まっすぐ歩けない小学1年生の弟を車に注意させるだけで骨を折り、〈弟なんか連れてくるんじゃなかった〉と毎回後悔したが、おじいちゃんが喜ぶと思って放課後の平日に、弟を誘ってはお見舞いに幾度か行った。

帰りの空っ風は目を開けられないほどの風圧だった。

手袋を持たない弟に仕方なくもう片方の手袋を貸してあげた。


夕飯はおばあちゃんと弟と3人で店屋物のかつ丼や中華丼を食べるのが多かったけれど、こちらの方がご馳走に思えたものだ。

夜はおじちゃんが昼間に〈きれいだね〉言っていた、隣のベッドの男の子に千羽鶴が吊り下げられている様子を、にこやかに男の子に話しかけていたのが気にかかり、その日の晩から千羽鶴を母とおばあちゃんを頼って作り始めた。母は忙しいのであまり頼めずに、夏からおばあちゃんと作り溜めていった。

子どもだったから忘れてしまう時もあった。

それでもおじいちゃんが隣の男の子をうらやましそうに見上げている光景に見えてしまう自分の感情から、内緒で鶴を折り続けた。

あと、残り100羽を切った頃だったろうか…

4つ下のいとこのユリが伯母さんとうちへ来た。

年長さんになってすっかり大人びていた。

ユリと弟と3人でいつもの店屋物のソースかつ丼をまさに食べようとしていた時に、父が階段をものすごい勢いであがってきた。

〈オヤジが死んだぞ〉

とうとうこの時がきてしまったと、心臓がバクバクして口から飛び出るかと思った。

気が動転し、天井が歪んで見えるほど平静でいられなくなり、階段を下りて玄関口へ行き耐えきれず号泣した。

すると、年長さんも下りてきて〈ソースかつ丼がさめちゃうよ〉

〈食べられないよ〉さらに泣き続けた。

〈そんなに泣かないで、わたしまで泣きたくなってくるじゃない〉

年長さんらしならぬ生意気な言葉がストッパーとなり、何だか笑いが込み上げてきて思わず笑ってしまった。

年長さんにはお手上げだった。

ソースかつ丼のところへ戻った。

でも、口の中に入ったソース味が涙で変な味になってとても食べられなかった。


おじいちゃんの葬儀は小4のワタクシには、強烈な体験として心に焼き付いた。

これから誰を頼りに生きていけばいいんだろうか…

大げさに思われるが、ワタクシの人生の半分くらいはこの悲しみから逃れるまで想像以上に時間が必要だった。

誰よりも自分達姉弟を心配している祖父をうっすらと感じていた。

時間の経過と共に大きな喪失感でいっぱになっていった

葬儀のとき普段感情を表に出さない母が、棺に大きく泣き崩れる姿に〈なんかドラマのシーンみたいだ〉とぼんやり思っていた。

泣いたのは訃報を聞いた時だけで、あとはぼんやりとした意識へ身を置いていたのは喪失感が大きいためだったのだろう。

それを埋めようとするための理由を探しだした。

自分がいい子じゃなかったから死んでしまったのかもしれない…千羽鶴が間に合わなかったから自分のせいだ…自分の命と引き換えにしてもいいのに…と本気で思っていた。

子どもは何か大きな変化があった時、受け入れられないため自分がいけないと思い込んでしまうことは心理学ではよく知られている。

まさしくワタクシも強い衝撃をこのように自分のせいでそうなったと納得させた。

小学生いや、中学生くらまでは大きな変化には耐えきれる肉体と精神に育っていく過程では大人が気をつけてあげたい場面があると思う。

周囲の状況や自然な摂理として受け入れられるには、大人のフォローが大事だ。

ワタクシにとってその要の大人は祖父だった。


◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   


1年経過しても喪失感は一層増していった。

周囲からは様子がおかしいと見て取れるほどの陰気さがあったようだ。

とうとう5年生の冬、担任の音楽の女性担任教師に放課後呼び出され、様子がおかしい理由を問い詰められた。

おかしな話である。

ものすごく責められたのだ。

子どもでも5年生になると思考は立派に成長している。

この事実を大人は忘れてはならない。

なぜ学校で暗く皆と一緒に行動できない上、仲良しのイズミちゃん意外と組むことをわがままで拒んだことや、授業中質問に答えないこと…担任のヒステリーはエスカレートした。

〈アンタの方がよっぽど正確悪いじゃない〉

??
お互いイズミちゃんと組むつもりでいたところを、わがままいって割って入ってきたA子を不憫に思ったイズミちゃんが無理やり組まされ、挙句ワタクシからイズミちゃんを奪ったといった優越感でものすごい得意顔をしているA子にメラメラしていた時に、音楽教師がTさんと組みなさいと強引に組まされたので、心の整理が付かないまま納得がいかず、「元の組意外はイヤです」と言ったことに対して、Tさんは性格もいいし頭もいいのに、何が不満なの?!…の後にこのセリフがきた。
そして、Tさんは大泣きをしてワタクシはとても困ったのだ。

そんなつもりはない。
この流れを説明する猶予なんて与えてもらえないので、性格の悪い○○さんという言葉だけが残った。

大泣きしたTさんには悪いが、性格がいいとか頭がいいとか仲良くなるのはそこじゃない。

なんとなく反りが合う…気が合う…笑うとこが同じ…共有という部分で似た価値観がないと何の興味の対象にはならない。

教室を〈Tさんかわいそう〉という空気に一変させて、Tさんを無意味にさらし原因はこちらにあるとクラスの子に同意を求めた音楽教師を心からお悔やみを申し上げた。

ワタクシはひと言もTさんがイヤなんて言ってない。
なのに、落ち着いてからTさんに事情を伝えたのだが、意味を理解してもらえなかった。
クラスのさらしものにされたショックで、何を言っても無駄なことだったのだろう。
ワタクシはそんなことしょっちゅうだったから、慣れているけど普通はショックだよね。

バス旅行の組みだったので、1日バスの席ではTさんとは口もきかなかった。

音楽教師がワタクシがTさんに気を使って話しかけるところを期待しているのをわかっていたのでTさんには何の思いもないのだが、裏切ってやりたかった。

話は呼び出しに戻るが…

黙ってそれを聞いていると、突然出席簿を机に叩きつけ大声で罵倒された。

〈理由をいいなさい!〉鬼の形相だった。

理由?あなたの都合の理由?

担任に自分の心を見せる気は毛頭なかったし、助けてくれと頼んだ覚えはない。

自分が暗くて担任に迷惑をかけているとも思えないし、放っておいてくれればいいのに。

結局は自分の指導に何か問題があるとワタクシから避難されているという強い思い込みと自己中な思考から、教師である特権を利用して心の鍵をねじ込んで開けさせた。

祖父が亡くなり、ショックをひきずっていることを告げると、その表情は安堵していたのを見逃さなかった。

自分に理由があったわけではないとホッとしたのだろう。

それくらい5年生にはわかってしまう。

この大人も子どもを見下している。

次の言葉は猫なで声でよくドラマでも聞くセリフを取って付けたように、浮いたセリフでこういった。

『天国のおじいちゃんが喜ぶとでも思っているの?』

いい人の仮面を急に被ったところで、さっきまでのあの恐ろしい形相は一生忘れることができないというのに…

担任はすっかり忘れても、子どもは一生記憶に残っている。

この喪失感を理解できないこの担任を5年生は哀れに思った。


〈おじいちゃんが亡くなっただけで1年以上も心を閉ざすことの意味がわかない、寧ろ年寄りは死ぬのが当たり前なのだから、早く慣れて明るく元気にやってくれれば問題ないのに、子どものくせに何浸りきってるの?!』

『だって、おじいちゃんでしょう?親や兄弟じゃないんだし一緒に住んでいたわけじゃないでしょう?』 と意味不明な発言で責め続けてきた。


〈どんな存在であったか…でしょう?〉


あぁ、この音楽教師は大人の姿をしているけど寄り添うどころか自分の範ちゅう以外のことはまったくわからない、理解しようとなんて思わないんだ。

それからくどくどと放課後、日が落ちるまで今の暗い自分はいけない子どもだと、早く元気な子どもに戻れと無意味な説教を続けた。

こればっかりは、音楽教師の都合通りにはならず【時間】が必要だ。



◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇ 



ワタクシにとって祖父は、子ども時代に1人は必要な真の大人であり、見守ってくれる唯一の存在で砦でもあった。

ブレずに生きてこれたのも、祖父の存在のお陰だ。

なんだかわからないけれど、何をやっても静かに微笑む祖父の存在があったから、宿題をやらなくても、成績がものすごく悪くても、低学年の弟と無理に遊ばなくても、好きなTVばかり見ていても、部屋を片付けなくてもすべて許されると思えたことは実はとても重要なことだった。


独り、亡くなった祖父と対話する中で強い後悔があった。

勉強が嫌いでまったくやらなかった自分を〈お前は欲がないんだ。そのうち欲が出てくればやる。〉と、散々な通知表を見て怒り心頭の父を毎学期、制したものだ。

それをいいことに何もせずにいい気になって努力をしてこなかった。

祖父はこんなどうしようもない孫を信じて笑ってくれた。

なんという裏切り行為なんだと、戻らない時間を悔いた。

ものすごく、深く後悔をした。

いてもたってもいられずに、小学1年生のときからの教科書を全部出して毎日読み続けた。

母はそんな娘を見てやる気になったと察し、学研のマイコーチを探してきて毎月自主学習するようになった。

自慢にはならないがワタクシのそれまでの成績のひどさといったら、5段階評価で1か2のレベル。唯一5が採れたのは図画工作のみ!というすばらしい成績だった。

今では考えられないのだが、2年生まで宿題を一切やらずに済んだ貴重な存在だった(笑)

2年の担任はヘビースモーカーで授業中でもタバコをぷかぷかと吸っていた、昭和でもめずらしい「紅の豚」にそっくりな50代の男性教諭。

〈宿題を忘れたやつはいるか~?〉と言ったか言わないうちに、ワタクシはさっと手を上げて「やってきていません」とニッコリ。

しばらくして後から白状する要領の悪い男子Mは、紅の豚に平手でなぐられ一番後ろのロッカーまですっ飛んだ光景は見事だった。

「お前はいい。正直に言ったからな。」と、ワタクシには手をあげたことは一度もなかった。

1度も宿題をしてこないのに、1度も怒られたことがなかったのだ。

ただ時々「たまには宿題してこいよ」とやさしく言われた。

Mは毎度凄まじい勢いで平手撃ちをくらっていた。

昭和な時代である。

デパートで携帯用灰皿をママと見つけた時、紅の豚の顔を思い浮かべた。

ママに頼んで買ってもらい、翌日学校の職員室の隅で、黙って紅の豚にプレゼントした。

頭をぐるぐるとワンコのようになでられた。

この担任の違いは大きかった。

怒ることができるのにそれをやらないことで、ワタクシから大きな信頼を得ていたのだ。

子どもには理屈なんて通用しない。

それに紅の豚はチャーミングだった。

給食のとき必ずワタクシにプリンをくれた。

〈宿題やってこいよ〉と、必ず一言添えて。

当時も差別だと言って周りが許さないであろうことが、この紅の豚には無関係のようだった。

徹底的に愛をそそぐ人であった。

時々Mにもプリンをあげていたが、断然ワタクシのほうがエコひいきされていた。

しばらくしないうちに、ワタクシがあげた携帯用灰皿を授業中見ることがなくなった。

おそらく学校側へ保護者からの苦情があったのだろう…トレードマークのタバコぷかぷかがなくなり、なんとなく覇気がない。

タバコの煙なんてもちろん嫌いな子どもだったけれど、紅の豚のそれはなぜか好きだった。

新聞の御悔み欄で紅の豚が亡くなったことを知ったのは、就職した頃だったろうか。

教頭や校長にもならず一生教鞭をとっていたスタイルには、常識にはとらわれない型破りな愛を感じてしまう。


◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇ 


音楽教師は5年6年と2年間担任となり、6年生の時に成績順で1の川からランキング形式で生徒の席を決めて座らせることをやっていた時期があった。

記憶では春からだったと思うが、ワタクシの席は言うまでもなく最後の川で後ろから1桁だったと思う。

一番トップは若くして○○○○女子大の教授になったもう一人の優秀な方のM君が『ここからの眺めはいいな~』 と手をかざして見渡していた。

この行動で完全にM君を嫌いになった。

音楽教師の思考は、成績順の席に座らせることで常にくやしい思いやはずかしい思いをさせて勉強をあおるという幼稚な手段だった。

この成績順の事件について、同じクラスだった幼馴染が偶然再会した10年ぶりの際、開口一番、真っ先にこの話をしてきた。

ということは皆記憶にしっかりと各々の思いと共に刻印されているというわけだ。

きっかけはこの席順ではなく、祖父への後悔によってそれより先に始めていたマイコーチと教科書を読みなおし、猛勉強をパワーアップさせた。

だんだん勉強が面白くなってきたのだ。

【後悔】と【意思】と【決意】の柱は強固なものとなった。

そして…【見返してやる】というテイストがそこに加わったのだ。

テストでは、30~40点レベルから60~70点と中くらいまでに安定してきた頃、音楽教師はまた呼出して問い詰めてきた。

『テストの点が急に上がってきたけど、ちゃんと勉強やってるの?』

〈はいはい、カンニングを疑うのかい〉

子どもならハートブレイクするようなことを平気で言っているこの音楽教師には何も弁明する必要はないと思った。

さらに70~80点がとれるようになった頃もまたまた呼出しがあり、

『こんなに急激に勉強ができるわけがない』 とわざわざ言ってきた。

ワタクシは無言のまま無礼な音楽教師に背を向けた。

それくらいしたっていいと思ったからだ。

そういう大人をくった態度に腹を据えかねていたことも知っていた。

その頃席順は、3の川あたりで中の上まで上がってきた。

半数のくやしい思いをしてきたクラスメイトたちは、2学期に入る前に保護者から苦情がありこの恐ろしい制度を取り止めることなったのを非常に納得のいかない思いのまま終焉した。

『どうせやるなら最後までやって』 という声があちらこちらから聞こえてきた。

もちろんワタクシも同感だった。

カンニングを疑われたのだから。

1学期の通知表を開いた時は、音楽教師を許せないと思った。

疑われたのではなく、そう思いたかったようだ。

2学期も席順を廃止しても勉強は中学まで続いた。
6年の3学期でも成績は中くらいにも上がらなかった。
テストはもう80~90点、時には満点が採れるようになったというのに、この音楽教師は認めようとしなかったのだ。

生意気な態度に対する制裁だというところだろう。

小学校では鼓笛隊を高学年になると全員参加で演奏しながら行進し、秋のお祭り行事に参加するイベントがある。
このイベントへの意気込み、鼻息の荒さにはワタクシには理解できなかったし、意味があるとも思えなかった。

それは、音楽教師が教師生命とやらを賭けて一段とヒステリーになるからだ。

子どもたちの演奏がひどいので夜も眠れないとか、耳鳴りがするとか、あなたたちのせいでこんなに真剣に指導しているのに、なぜ上達しないんだと毎回繰返し怒鳴っているので眉間の怒りジワが益々深く刻まれていった。

子どもたちは教師生命だか何だか知らないが、もううんざりしていた。

音楽ってちょっとたのしくないな…と、思ってしまうほどだった。

それでも、リコーダは好きだったので家でもずっと吹いていたからテストの時は音楽教師も認めざるを得なかったようだ。

後に、弟からその件で被害をこうむったと散々怒られたのだが…

この一連の出来事は母にはすべて報告していたので、通知表に反映されなくてもいいと思っていた。


◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇ 


中学1年の時には8クラスもある1000人のマンモス校で、1クラス50人近くいた丙午の2年下の時代だった。

いきなり成績はダイレクトにそのまま評価され、体育以外は5をもらえた。

小学校の散々な成績を知っている子は信じられないといった顔をしていたが、そのうち周囲は何となく〈できるやつ〉と同じ時間を過ごすようになった。

担任の生物の教師通称ケメ子(昭和の漫画)からは 『絶対、ぐれない真面目な子』 と親子面談の席で太鼓判を押された。

後に、この太鼓判というやつの効力の無さを思い出すと笑いが込み上げてくる。






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by fairytalem | 2013-10-18 11:30 | つぶやき | Comments(0)

若き日の記憶の旅5

こんばんは、Fairytaleです045.gif

若き日の記憶の旅5~切ない思い出編~

母は過労でよく腎盂炎になり、それも急性の強い症状でベッドから出られないほどが数回あった。
掛かり付けの医師からは相当父は怒られたはずだ。このままでは死んでしまうとまで言われたようだった。
もともと身体の弱い母は、強度の貧血症で1年以上中学の時に入院生活をしていたくらいだ。

今はピンピンのおばあさんならぬ10歳は若く見えるアクティブな母からは想像もできない。

病弱で倒れる母とよく泣く弟、すぐに怒る父…私の家族はそんなだった。
書いていて笑ってしまった。

そして、ワタクシはどんな子どもだったのだろうか。

今もがんばって試行錯誤と研究の日々を朝から晩まで時には徹夜をしてまでやっているが、色んな意味で子ども時代の自分には敵わない。

高学年の5年生くらいになった頃か、母は実家のおばあちゃん家へ帰ってしまうことが何度かあった。

今で言う〈プチ家出〉だ。

山盛りになっていく洗濯物とお腹をすかせる弟と自分。

仕方ないので、洗濯機をまわし干してみた。

父はその時どんなふうだったか記憶にない。

そして、ガス窯でおいしいご飯をつくって食べた。

〈なんだ、自分でもいけるではないか?!〉

スパゲッティーの頃とはちょっと違うぞ006.gif


心配して母が戻ってくる頃には、ワタクシも慣れてきてそれなりにできるようになった活躍を称えるどころか、やる必要がなくなりなんだか気に食わない。

こういう子どもは、褒めなくてもいいから頼ってどんどん使うべきだと思う。

母はワタクシを〈見損なっている〉と思っていた。

母の口癖は〈子どもは知らなくていい〉

イヤイヤ、全部わかっているから。

(ムスメがとぼけて知らないふりをしているのもわかっているつもりだ)

そろそろ〈プチ家出〉をして不便であろうかと察し、母の普段着と下着類を旅行バックに放り込み、自分のベッドの下へしのばせておいた。

学校から帰宅するとそのバックがなくなっていたので、取りに来たなと思った。

それまでに必要かと確認なぞしない、そういう小学生だった。

お買い物するとき言葉の足りない母の通訳フォローをする役目で、外出は気が気ではなかった。

(今はムスメがそう思っているのかもしれない)


小学生高学年になると、料理本を見つけてつくるようになった。

ワタクシの料理は料理本が師匠で、当時は読みにくい文章とモノクロで何の具材か見分けのつかない写真が多く、不親切なものがほとんどだったので、想像して作ったものだ。

そんなだから、食べられるレベルのものは作れるようになったが、いつまで経っても上手に作れるまでには到達しなかった。

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クッキーを3年生の時につくったちょっとした事件がある。

今思うと相当あやしいクッキーなのだが、バターの代わりにマーガリンをつかって、コネコネして冷蔵庫に寝かして焼いたもので、あまり甘くない風味のない、さらに言うとよく火が通っていない小麦粉の風味だけが残る…まさに子どもが作ったないないずくしの味だ。

それでも形になっただけでもうれしくて、親友のブーヨンに廊下で試食してもらった。

『味はあまりおいしくないんだけど…』 と、何度も念をおした。

いつも意地悪な子ものぞいてきて、調子よく 『ちょうだい』 と勝手に食べられてしまい、『はじめて作ったの?おいしいじゃん』 と言い放ち、もっと奪っていった。

まるでジャイアンみたいだった。

ハイエナのようにジャイアングループから奪われ、ビニール袋にいっぱいだったクッキーが手元に残ったのは2~3枚。

せめて形だけでも上手に焼けたものを親友にあげたかった。

そう思うと、気持ちがひどく落ち込んだ。

『ごめんね。いくちゃんに少ししかあげられなくて』

…食べなくてもよかったような味だったけど(笑)

それでも、あのジャイアングループがあんな味でもおいしいと言って奪っていったくらいなのだから、悪くないんじゃないか?と、いつしか悲壮感もなくなっていた。

そんな子どもだった。


その後、祖母の家で毎週末作った甲斐もあってか、だいぶおいしく食べられるようになった。

祖母の家のお隣さんのおばあさんにビニール袋にいれてリボンを結んであげた。

そのおばあさんは、涙を浮かべて喜んで食べてくれた。

その後、うちのおばあちゃんを通してお返しに飴を頂いたような気がする。

今思うと、おばあさんは家族から離れた個室の4畳半の部屋からほとんど出ない生活だったから、時々うちのおばあちゃんの腰巾着のごとく一緒に声をかけに行くと、痛く喜んでくれた。

きっと子どもがクッキーをつくって持ってきただけでも、単調で孤独な生活のせいで特別なことに感じられたのかもしれない。

クッキーができる度にそれからは必ず隣のおばあさんへ試食を兼ねて持っていった。

『こんどのはおいしくできたよ』

〈うちの孫はこんなものをくれたこともないよ。ありがとうね。〉

と、たいしておいしくもないクッキーをうれしそうに毎回快く受け取ってくれた。

ワタクシは隣のおばあさんがいつも笑わない人だったので、この時だけちょっと違った表情をすることにとても喜びを感じていたのだ。

時が過ぎ、隣のおばあさんの個室は取り壊され、高校生だった孫が今では主となり、新築の2階建て一軒家に建て替えた。


そしてワタクシも現在そのお隣さんだ。


切ない思い出のひとつだ。


切ないと言えば、小学1年生の時アイちゃんという、色白でちょっとそばかすのある、とてもかわいい女の子で幼稚園から一緒だった。

アイちゃんといると、守ってあげたくなる男の子の気持ちみたいになった。

よそのお家のことにまだ関心も興味のなかった6才のワタクシはこの後起こる、よそのお家と自分の家の違いを知ってしまう出来事をまだ知らない。

土曜日は半日で放課だった時代。

まっすぐに家に帰らないといけないのに、アイちゃんに〈うちくる?〉と誘われて、アイちゃんについて行ってしまった。

この時点で小学1年生はイケないことをしている罪悪感が漂っています。

何も考えていない小学1年生は、初めてお邪魔するお家に家の人が誰もいません。

そう、鍵っ子だったアイちゃん。

慣れた手つきで誰もいない家のドアの鍵をあけて入ります。

〈はいって〉

キレイに片付いていて、知らない家の匂いがした。

〈……。〉フリーズしている自分。

〈誰もないの?〉

〈うん、お母さん仕事だからいつも茶ダンスにおにぎりがあるの〉

〈食べる?〉と、おにぎりのお皿を向ける。

逃げ出したい気分になってきた。〈もう、帰る〉

あまりにも衝撃的なことだったからだ。

かわいいアイちゃんはいつもひとりで鍵をあけて、ひとりお家で待っているのだ。

耐えきれなくなり、走って家まで帰った。

アイちゃんがひとりでさみしく過ごしている姿が脳裏に見えてしまったのだ。

とても大人びたアイちゃんの理由を知ってしまった。

それに比べて自分は何だかんだ言っても、1階の事務所にはママもいるし事務員さんもいる。

2階の廊下階段から庭を見渡せば、現場の社員のおじさんたちがトラックの荷を下ろし、ユンボを水洗いしている。ユンボとは今でいう油圧ショベルのこと。

小学生になった弟はこれをよくいじくっていた。

人の気配のある中で、安心して何の不自由もなく独りの自由時間を過ごしていることを1年生なりに自覚した。


アイちゃんのママはとても美人で優しく幸せを絵にかいたような家庭にしか見えていなかったのに、一人っ子のアイちゃんにはケンカする兄弟もいないうえ、ひとりで過ごす日があることやおにぎりを食べて、夕方まで長い時間をどうやって過ごしているんだろう…

よそのお家と自分の家の違いから、自分という枠を認識した初めての出来事だった。


それから2年生になって、アイちゃんは転校していった。


噂では、その時の同級生のC君と中学生前からつきあっているらしいということだった。

C君はバリバリのヤンキーの総番というやつだ。

同級生たちは〈バリバリヤンキーらしいよ〉と言う。

環境的要素はあっても、あの清楚なかわいいアイちゃんが、ヤンキー?

今もこの目で見ていないせいか、信じられない。

アイちゃんちへ行ったのはそれっきりだった。

学校でもぎくしゃくしてしまい、アイちゃんとどう接していいかわからない。違う環境と家庭という枠組みを意識してしまってから、接触するのがとても怖くなった。

無関心のように見えるこの両親から加護を受けているということが、1年生の時によくわかったのだ。



もうひとり同じクラスに幼稚園から一緒だったヒロコちゃんという4人姉妹の上から2番目でしっかりした女の子と仲がよかった。

母同士が公認ということもあり、ヒロコちゃんはよく遊びにも来たし、遊びにも行った。

妹とうちの弟が同じ年だったこともあり、姉弟一緒に遊んだこともあった。

小学1年生になり自分の部屋を持ったとき、あまりにも整理整頓ができず相談したことがあった。
ヒロコちゃんはしっかりしていて家のお手伝いはよくやっていると言っていたので、洋服のたたみ方を教わった。

ふふふっ、037.gif普通は母親から教わるところ、同級生からというのは面白い。

ワタクシの服をひざのうえでお母さんのようにたたむ姿は今でも目に焼き付いている。

ある時急に転校が決まり、あっと言う間にヒロコちゃんもいなくなってしまった。

母から隣町のA小学校へ行ったと聞いた。

やっぱり、また小学2年生だった。

高学年の4年生になると自転車解禁となるのをきっかけに、A小学校の近くにあるというヒロコちゃんの家を探し当てて、突然訪ねて行ったことがある。

家におばあちゃんがいて、そろばん塾へ行っていると言われた。期待した通りに感激の再会とはならなかったけど、家はわかったのでまた来ればいいと勝手に思い込んでいた。

それから1週間もたたないうちにヒロコちゃんが自転車に乗って、うちの前の道路に立っていた。

とてもビックリしたけど、感激した。

〈アタシと同じ気持ちなんだ〉と、感じたからだ。


でもなんだかヒロコちゃんの雰囲気がぜんぜん違うぞ…

2年の隔たりで、無口で大人になったヒロコちゃんに戸惑った。

無表情だったけど、わざわざうちを覚えていてくれて来てくれたんだ!

うれしかったけど、言葉をうまく交わすことができずもどかしい時間が過ぎた。

手紙やお菓子をくれて、時間がないといってすぐに自転車に乗って帰っていった。

色々話しをしたかったけれど、思春期ってやつはどうしようもない。


のちにブーヨンとヒロコちゃんが中学で一緒になり、ヒロコちゃんが黒や紫といった派手なファッションを好み…ヤンキー風になったとブーヨンの手紙で知った。

ヤンキー風でもとてもお勉強はよくできていたので、地元では一番偏差値の高い高校へ進学していた。

あのときの自転車にまたがったヒロコちゃんが、今も変わらず自分の中にいる。




高学年になり、親友のブーヨンとは離れ離れになり交換日記と2月14日のチョコ交換が卒業するまで続いた。

それでも同じクラスにもうひとりの親友ができた。

学校イチ背の高いイズミちゃん。

よくイズミちゃんのことをKとススムとからかっていたネタは〈ハナクソふぶき〉…なんだそれ?

給食のときだったか、イズミちゃんの鼻からハナクソがふっと出た瞬間にこの3人が居合わせたことが、このネーミングになったのだ。

小学生らしいでしょう(笑)

イズミちゃんの背丈はもう出来上っていて167㎝ちかくあった。ワタクシも160㎝以上あり、イズミちゃんの次だった。背の順がご縁で友達になった。

ある朝の自習でイズミちゃんが先生に呼ばれ、身長と似つかわしくない肩をすぼめて席についた。

〈どうしたの?〉〈うん…〉

〈何があったの?〉〈あとで話すよ〉

〈今言ってよ!〉〈うちのお姉ちゃんたちと母が違うんだって〉

〈…え?!何、どういう意味?〉〈だから、私だけ腹違いなんだって!〉

〈…!?〉

すぐに意味がわからず、混乱した。

今聞く話じゃなかった…

いつもより長く感じた授業だった。

休み時間を待って、イズミちゃんから話を聞いた。

最後は放っておいてと言われた気がする。

確かに、イズミちゃんとお母さんはスラッとした体系も顔もそっくりだけど、お姉ちゃんとお兄ちゃんは小柄で顔も似ていない。

自分だけ違うということがとても落ち込ませたようだった。

ハナクソふぶきのイズミちゃんがそれから急激に大人になっていった。

もう、小学生のくだらないネタであまり笑わなくなっていた。

Kもススムも心配して色々聞いてきたけど、自分の口からはうまく言えなかった。

それからイズミちゃんちへ何度も遊びに行ったけれど、姉兄に合う機会は何故かなかった。

中学、高校とイズミちゃんはかなり荒れたという。

20の時にイズミちゃんと夕飯を約束したことがあったが、1時間経っても約束した場所へこなかった。

連絡したら〈普通、1時間待つバカいる?(笑)〉

絶句した。

もう、ワタクシの知っているイズミちゃんはどこにもいなくなっていた。

あのときにしつこく聞いた子どもだった愚かな自分を悔いた。

ハタチになった今頃、ブーメランとなって返ってきたのかもしれないと心底思った。






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by fairytalem | 2013-10-01 19:23 | つぶやき | Comments(0)

若き日の記憶の旅4

こんにちは、Fairytaleです029.gif

若き日の記憶の旅4~幼少期の食べ物にまつわるお話編~です。


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父の会社は管工事事業をワタクシが生まれた年、父が24歳の時に興したイワユル零細企業だ。

父は会社を立ち上げて弟が生まれてからも、銀行からの融資と大きな規模の官庁から上水道管本管工事を入札でとる営業をメインに、すべてといってもいい工程を独りで取り仕切ってやってきた。

いつも切羽詰まった父は怒ってばかり、顔を合わせる度に何かにつけて文句を言われるのだから当時の子どもには、たったもんじゃない。(恐らく今のムスメの心境と同じだろう)

小さな会社でも、家庭持ちの社員を10名近くかかえていたその経営の様をずっと見てきた。

幼稚園に入園する時期も逃してしまった母は、気づけばワタクシは年中さんになっていた…というくらい呑気な…いや、それどころではなかったのだ。

自分たちの生活は社員の後。

父と同じテーブルを囲んで食事をした記憶はほとんどない。

申請締め切りの図面を外注の設計士に出す予算なぞない父は、明け方まで図面を書くことはよくあったようだ。

いくら若いとはいえ、昼間は社員と一緒に土木工事の本管を埋設するための〈穴掘り〉を掘削するユンボと人力で掘り進め、入札にはスーツに着替えて営業し、夜にはそれなりにお付き合いで飲めないお酒を飲んで仕事をとってきた。

そこには、若い野心と生まれながらの負けん気で、成立したのだろうか。

母も急いで夕食をつくったきりで、一緒に食べたことも記憶に少ないのだ。

そういえばいつ食べていたのだろう…。

弟はそんな母を思い、幼いながら〈ママのぶんは?〉といって自分のおかずを残そうと食事の度に聞いていた。

母はそんな弟がたいそうかわいかったので、ふたりはいつもベッタリ。

自分の隙もなかったが、割ってまで入ろうともしなかったし、甘えん坊の弟にそれは譲っていた。

長女ならそういった経験はよくあることだろう。

少なくとも自分はそういう環境で育って正解だったと思う。

過干渉に育てられるよりも気がラクというもの。



遅い夕食時、幼い弟は食べながらよく居眠りをしていたその光景は、今の厳つい図体からは想像がつかないが、小さくてかわいかった。

夜は時々当時流行っていたアイスクリーム〈レディーボーデン〉を入れ物ごとかかえて弟と食べるのがたのしみだったが、弟はおねしょをしてしまうから、とたくさんは食べられないのでちょっとだけかわいそうだなと思っていた。

その頃の写真を見ると、ワタクシも弟とさほど変わらない幼い顔をして写っているが、当時はそんなふうに姉らしく思っていた記憶がある。

相変わらず3歳下の弟と二人きりの朝食と夕食。

それが通常なのでそんなものだと思っていたし、7時を過ぎないと母は2階の自宅へ上がって夕食の支度ができなかった。

もっと遅い時間になると、おやつもなかったので弟が 

『ねぇちゃん、お腹すいたよ~』 と、同じくひもじいワタクシも母の料理らしい料理を見たこともないので、どう作っていいのかまったくわからない。

小3の子どもの知識と経験では到底無理だった。

ご飯は当時、ガス窯で炊く時代だったので(これまたおいしい)ガス管とか危険な大人の聖域を恐れていたが、背に腹は代えられない。

母にやり方を聞いたり、見たりして自ら覚えていった。

最初につくった食事は味のない〈スパゲッティー〉

〈パスタ〉ではない(笑)

ケチャップが足りなかった味と麺が固かった感触が口の中でじゃりっと音がした。

『ねぇちゃん、まずい…』

確かにすごくまずかった。

弟はお腹がすき過ぎて、泣かれたことも何度もあった。

一生懸命つくったのに食べられないものしか作ることができなかった、こっちが泣きたいくらいだと何度も思ったものだ。

何がいけなかったのか、母に聞いたけれど忙しく追い立てられている耳には入らなかったであろう、答えは返ってこなかった。

この時の教訓として 『教わることは何ひとつないんだ』 『自分で見つけるしかない』

このことはしっかりと今でもワタクシの人格形成の軸となっている。

悲惨な状況とも感じたこともなかったのは、時々父が家族に溶け込む手段としての〈外食〉が唯一の至福のひとときだった。

洋食にあこがれていた当時は〈グラタン〉〈子牛のステーキ〉がワタクシの大好物。

もうそのレストランはなくなってしまったが、ワタクシの記憶には鮮明に刻印されている。

グラタンのお店は、ホワイトソースがなめらかで味も深くチーズの焼けた香ばしい匂いにやけどをしながら食べたものだ。

子牛のステーキは当時1500円だったと思う。

高いものなんだという認識もあったけど、あの美味しさの前には遠慮などない。

あの時の子牛のステーキにはもう出逢えないであろう。

条件つきだから。

〈ぞうりハンバーグ〉と家族では別名で呼ばれていた、特別なハンバーグがあった。

夕食を済ませてTVを見ていると、母からその〈ぞうりハンバーグ〉が食べられるから行こうと言われ、さっき食べたばかりのお腹と相談した。

会社に出入りしていたオジサンたちから噂に聞いた〈ぞうりハンバーグ〉に逢えるんだ!

悩んだ挙句、こんなお誘いはそうそうない。

オジサンたちと一緒に弟とついて行くことにした。


蝶ネクタイの黒服のウェイターが入口で待機しているレストラン。

床は大理石貼りで夏でもひんやりした雰囲気は、一瞬で子どもを黙らせる威力のある内装のレストランだった。

入口はドーム型になっていて、石でできた壁面は滝のように水が流れ、たしかションベン小僧か天使の像があったようだ。

大きな観葉植物が飾ってあり南国のような異国情緒漂う、田舎では珍しい高級レストランだった。

仕事の話しをしている父とオジサンたちから離れて座り、個室での薄暗い部屋の床からの間接照明でどこか落ち着かなかった。

ウェイターが大きなハンバーグがのった鉄板とじゅーじゅー音をたててやってくる。

すごく緊張して待っていた。

目の前に自分の顔よりも大きなハンバーグだ!大人サイズのぞうりそのものの形だった。

〈うわ~すごい!〉

弟が大きな声で身を乗り出し、はしゃぎ出した。

〈ダメ!静かにして〉

と姉は制止。

お腹がすいていないのにこの特別なハンバーグをどうやっつけるか、ぐるぐると頭を動かした。


今でも味を思い出せる。


結局300グラム以上あったであろうハンバーグをワタクシは夕食後にたいらげたのだ。

これが原因となり〈大食い〉がさらに定番になったが、太らない体質だと家族も自分も当時は思っていた。

今度はお腹をすかせて行きたかったが、こちらからの要望は聞き入れてもらえるほど贅沢はできなかったこともよくわかっていたし、何かの特別な仕事からみの気まぐれなハプニングをいつかいつかと心待ちにしていた。

貧乏だけど、時々贅沢な特別なことがやってくるこの不思議な家。

この家庭の居心地は悪いが、ナイフとフォークのちゃんとしたレストランへ月に数回は連れていってもらえたので、普段のそれは気にさわらなかった。



〈嬉しいことは自分のタイミングでやってこない〉


これは生きていく上でとても重要なメッセージになっていった。






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by fairytalem | 2013-09-14 14:22 | つぶやき | Comments(2)

佐野ラーメン

こんにちは、Fairytaleです006.gif

先週末の土曜日は、今年はじめての3人家族がフリーでした。

仕事は山盛り残っていましたが、お腹もすいてきたことだし…


やっぱ高速で佐野ラーメンでしょう!


ということで、このところ睡眠時間Maxとれないけれど、出掛けるときは元気になる。

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下道から向かうと1時間半かかる距離を高速で30分とかからずに…追い抜き車線キープ必須…2時前に到着。

この時間にならないと1時間待ちの混雑からのがれられない。

駐車場も100台くらい入りそうな広々した〈おぐら屋〉さん。

以前の小さな店舗から洋風の建物で、ファミリーテーブルが30席以上あると思う。

そこが何十組待ちとなるんだから、毎週末すごい盛況ぶり。

車のナンバープレートを見ると都内や埼玉、茨城、群馬と周辺から1時間以上かけて来る人たちばかり。


ワタクシだけじゃないのよ~


佐野までの往復時間がとれない時は桐生の〈森田屋〉さん。

本店と支店があり、好みで分かれるみたいですけど、うちは佐野厄除け近くの本店オンリー。

うどんみたいな白い麺で青竹踏みで打つこの佐野のラーメンは、和の感じで魚の出しメインの塩味か醤油味。

濃い味のものはもう食べる気がしないので、さっぱり系のラーメンらしくない感じがいい。

もともとラーメン嫌いだったワタクシでも食することができたラーメン。

往復運転だったので、家族が寝ているすきに帰りがけ〈ジョイフルホンダ新田〉へ回り、ファニチャーコースの材料の一部の木材と金具蝶番をゲット。

無計画なのに、無駄がないわw

このコースはよくあるパターンで、佐野~新田~伊勢崎~前橋と帰路の途中必ず夕方は雨降りになる。

しかも猛烈系の。

今回は…めずらしくなかった。


行き帰りと〈ハリーポッター〉の初期を観ながら、車に揺られると眠くなる習慣は変わらないらしい…やっぱ子どもだな。

おしゃべりをしなくてもこういう時間を過ごすのもいい。

…静かなほうがうれしいだけかもw



明日は製図コース1期生の最期の講座となる。



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by fairytalem | 2013-09-06 15:13 | つぶやき | Comments(0)

若き日の記憶の旅3~自立編~

こんにちは、Fairytaleです001.gif

若き日の記憶の旅3~自立編~です。


2階のフロアーはデザイン系で独立したような組織だったのですが、グラフィックデザイナー女子の先輩はニコニコしていつもおしゃれで、関連企業の上役のお嬢様。

上司たちからも当然可愛がられていました。

しかし、上司たちはその先輩の裏の顔を知りません。

イヤミな常務は、同じ1階フロアー席のワタクシをターゲットに信じられない罵詈雑言を浴びせてきました。『君の弟さんは、あまり頭のよろしくない○○高校だったよね?』 とか、『なぜ、○○金物でバイトをしているのだね?家が大変なのかね?』 とか。

ワタクシには何も響いてこないネタで揺さぶりをかけてくる。
ジョウム…アナタの品性なしの会話は哀しいくらい頭のワルさを浮き彫りにするから、自分のためにやめた方がいい…。と思っていました。

後のこの常務のゆく末は無残なものでした。

10年後この企業は解体されグループ会社を1社にまとめ、当然役員は3/4いらなくなります。

社長からも気に入られていないことと人望もないことで、出向先は関連企業の〈飲食店〉の店長。

まだ落ちがある。

この飲食店は市内ではまぁまぁの老舗のてんぷら屋で実家ではここを常連で利用していた。

家族の週末の食事はここ。当然、ワタクシもワタクシのパートナーもイベント・デザインのこの会社で出逢って結婚したので常務をよ~く存じ上げている。

まだ新婚間もないパートナーは、父からの高圧的なお誘いをはねのける手段を知らない。

ブルーな気分になるワタクシとパートナー。
そして未婚だった弟と両親で食事。

弟には例の会話を昔、話してしまっていたことをとても後悔した。

〈あいつに散々いじめられたんだろ。やりかえしてやれよ。〉 という弟。

関わりたくないので顔をあげられない自分。

ここでは書けないようなことを弟はやってくれた…

まったく爽快な気分になれなかった、ということだけ付け加える。


話は戻って…

誰にでもそんなふうなので全員から、もれなく嫌われていました。

おしゃれな先輩も当然でしたから、陰ではゴミや虫を入れて毒物ではないギリギリのほうじ茶を入れた常務の湯飲みを差し出す役を押しつけてきました。

きっぱり断ったのでどうするか見ていると、自分で頼まれもしないのにお茶を入れて素知らぬ顔で何を出汁にしたのかわからないものを出していました。

あぁ、コワい。そして、くだらない。

人に嫌われるとはこういうことか…
本人は微塵も感じることなく、現実とはリアルに反映されるもの。
実際の問題は悪そうな常務ではなく、そうするご本人の問題。



職場では仕入れ管理の経理事務でしたので、毎月締め日は残業です。

のび太くんに似た会計士経験のある先輩に手伝ってもらい半年はなんとか乗り切りました。

そのうち先のび太くんは営業部へ移り、ひとりで締め切りを仕切らなければなりません。

親の勧め(強制)で入社したため気難しい社長なのですが、ワタクシには目をかけてくれたことがとても面倒でした。若く尖っていたこともあり、放っておいてほしいオーラ全開でしたし、何よりも社長に気に入られていない直属上司はそれをエサに誰の目からみてもわかるほどワタクシを嫌っておりました。

サイドBの先輩はそれを知って、何度もロッカーで会うとわら人形で復讐を提案してきました。

やるか!そんなこと。


仕事がもらえないので、暇で時間をどうつぶすのかが日課でした。

助け舟という、そう簡単に差し出してくれる奇特な行為なんてないことも、それまでの少ない経験で学習していましたので期待なぞしておりません。

ペーペーとは今思うと気楽なもの。

天真爛漫なワタクシは凹むことなく、デザインデスクや現場の作業場に行ったりしてそれなりにたのしく油をうっていました。達筆なKさんの筆さばきは達人技。見たこともないすばらしい看板の文字で定評だったし、イベントものを請け負う業務部門もあり、そこはおもしろいものに囲まれた現実と違った別世界でした。
いい息抜きにしかならず、いじめ甲斐のないワタクシにさぞかし地団太を踏んだことでしょう。

何をやっていたんだ?!と怒られてもへいちゃらです。

人にはこういう特技があると生きやすいもの。

何か言われるのを恐れているタイプではないので、少しでもたのしいところに身を置ければハッピーでした。

社内の人間とコミュニケーションを深め、つまらない職場にも気づけばそれなりに自分の居場所をみつけていました。


経理の仕事は、電卓を見ずに5本の指で縦計ができるようになり、汚文字と言われたペン字も営業課長から『N君(上司)の文字に似てきたね』 と褒められたのですが、上司が横で憤慨しておりました光景は忘れません(笑)
イベント事業部門からあて名書きも時々頼まれるくらいの文字も、それなりに書けるようになり、気づけば他部署から色々なことを頼まれては喜んで引き受けていました。

横目で上司は〈うちの女子を勝手に使わないでくれない?〉とスネています。

仕入れと売上で先輩女子と自分で業務を折半していましたが、バブルがはじける頃だった追い風もまだ残っていた時代で仕事量は多く、仕入れ担当の仕事は、出入り業者さんの顔と名前と請求書の書き方のくせと材料を見分けられるまで時間がかかりました。
なんでも屋の業種であったこともあり、仕入帳に記入する際の項目分けを判断するため業務部長と仲良しにならないといけません。

バイト経験すら片手もないワタクシには、コミュニケーションにとても苦手意識があり、人見知りも激しかった幼少時代をそのままひきずっていたシャイな性格。仕事になっても慣れないまま恥ずかしいという毎日で、身の置き所が落ち着きませんでした。
社内では無駄口もききません。きけません。
それゆえ、入社時はおとなしいと思われたようでした。

その頃には、ニガテな上司からの厳しい視線も緩和しかけてきたので、なんとかやっていけたのでしょう。
そんな上司も締め日は残業になってしまう自分に遅くまでつきあってくれました。

といっても、ただ席に座っているだけです。

それだけで、充分だという気持ちでした。

『もうすぐ終わりますので、どうぞお先にお帰り下さい』 …(ぜんぜん終わらない量だけど)

『えっ、そう?』 といってデートをすっぽかさないで済んだことに安堵し、いそいそと帰っていったことも、それまでの態度と明らかに違う人間に変わっていました。



いつも優しく寡黙な〈専務ちゃん〉…影では愛を込めてそう呼んでいました。

当時奥様をご病気で亡くされ、とても寂しくされていたご様子に女子全員から労りの気持ちで見られていました。専務ちゃんが〈じゃがいもの味噌汁が飲みたいな〉 とタバコに火をつけながらつぶやく姿を何度となく記憶にあります。
それくらいのことならつくってあげたいと思っていましたが、横に並ぶ常務の尋常じゃない反応を考えると出来ませんでした。
専務ちゃんにはそれから2年もたたないうちに若い奥様と再婚され、幸せそうに奥様のお写真をワタクシに見せてくれました。


ある時、専務から社長室へワタクシは呼ばれ…??

〈○○さんに僕の仕事の一部を頼むよ〉 と言われ、とても嬉しかったことがありました。

そうです…仕事ができる上司や売上担当経理の先輩女子からは、随分にらまれたこと。

今から思うと、仕事ができるかどうかということ以上に信頼できるかどうかというもっと特別なことを受け渡してくださったのです。

社員の給料明細を見ることができたのは、専務ちゃんとワタクシだけでした。

お給料日は振込でしたが、ボーナスは普段いない社長(他にいくつもの事業を兼任していた)が手渡しするという社員がゲンナリする昭和真っ青のめんどくさい儀式がありました。

その明細は専務ちゃんの手描きで、しかも査定によりボーナス率がはっきりとわかりました。
ワタクシは最高の評価を専務ちゃんからいただいていました。他のエラそうにしている社員の査定もしっかりと拝見させていただきました。
真実を見る権利を堂々と手にした瞬間は、なんとも形容しがたい〈ご褒美〉にもとれました。


入社から3年目になる頃でした。


3年後の入社日に『お話しがあります』 と、直属の上司に何度も夢にまでみた場面を迎えました。

これは辞めたいと必死になって親にお願いしても聞き入れてもらえなかった時に『3年は我慢しろ』 と極刑がおりた為、本当に我慢してしまったクソ真面目な自分はその日を指より数えて過ごしたものでした。

想像したことは実現できるのです!

ものすごーく強くその場面がスクリーンに映るくらいに想像できたことで、実現しなかったことは1度もありません。

言い換えればそれくらい切願しないと実現化しないともいいます。

空気から退職を察知した上司は、もはや自分にとって〈嫌いな〉という形容詞はなくなり、3年の月日は心の持ち方でいかようにも変わるということがわかりました。

上司は、入社してきた《新人類》を理解できず、CR-Xだからヤンキーではないか?と疑っていたそうです。

早く辞めてもらいたくてイビったことも上司の口から出たことは、懺悔までいかなくともプライドの高い当の本人はそれが精一杯の態度であったとわかります。

『私は入社した時から自分の意思でここへ来たわけではなかった上、まったく自分に向かない仕事についてしまいました。どこへ行っても社会に出たばかりなので向いていようが向いていなかろうが仕事のデキは同じようなものとわかっていました。ここで3年間お世話になると決めた今日がその3年目なんです。』

とてもびっくりした表情を浮かべた上司は『残念だね…』 と今までに聞いたことのないやさしい声で言いました。
一人前になったこと、どこへいってもはずかしくない社会人になったこと、いい子になったね…と10歳ほど年上のまだ若いその上司も、実は私に似ていて親からの差し金で自分の意思を持つことを許されなかった同じ穴のムジナであったと理解しました。


その後は、自由を謳歌し…といいたいところですが、ここからが本番です。

しかし、無駄であろうこの経理経験は後に小さな自信となり、自分の力を信頼できるきっかけとなりました。

やりたくないけど、仕事できないから我慢してOLやっていました…と端からはそう見えていたことでしょう。

しかしどうです?

得られそうもないことがたくさん起こりました。

専務ちゃんの信頼と頑なだった上司が変わり、ちょっと居心地が良くなり離れがたくなるなんてことは想像もできませんでした。

現状の未熟な自分を受け入れ、やれることを見つけて、嫌がる仕事を率先し自分の仕事としていたことで、つらいイヤなことはひとつもありません。

寧ろ、いいことしか起こりませんでした。

掃除を無心にしていると、とても気分が良くなり、穏やかな気持ちになったのです。

その場を整えることで、居心地も良くなり、心も落ち着くこと、そして神仏の入り口のお掃除を毎日することで何となく神様から見られていることを感じるようになり、自らを律するようになっていった気がします。

ろくにバイト経験もない、社会人として目も当てられなかった小娘に、この企業は随分と手をかけてくれました。マナーセミナーなど外部指導の人材育成機関へ通わせてくれましたし、一向に辞める気配もないので上司も諦めたのかいつしか仕事を教えてくれるようになり、おとなしいだけのワタクシではなくなっていきました。
最後まで、上司とはプライベートな会話はありませんでしたが、独り暮らしをするようになったワタクシをうらやましそうに見ているのは気がついていました。

周囲が変わったというより自分が変わっていったのです。

いざ!コーディネーター養成学校へ~

23の春でした。




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by fairytalem | 2013-08-31 13:30 | つぶやき | Comments(0)

若き日の記憶の旅2~自立編~

こんにちは、Fairytaleです

若き日の記憶の旅2~自立編~です。

22歳から貯蓄ゼロで家を出たため、厳しい経済状況の学生兼自立生活でした。
今から思うと微笑ましい食生活で、給料日前はキャベツだけの肉なし焼きそばがお弁当の定番。
その頃のクリスマスはハンバーグが贅沢料理として写真まで撮ってあります(笑)
カーテンもしばらくつけられず、TVなんてもっていません。当時ボーナスで購入した10万円のパナソニックの画王が来た時は、昭和か?!という喜びようでした。
生活用品はなかなか揃わず、それでもあまり不具合も感じることはありませんでした。
自由で好きなことができる喜びには代えがたいものだったことで、景色さえ一変してしまったからです。

自由であることに死ぬほど嬉しかったのです。

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自由を実感できる現代の若者であったのは、厳しい家庭だったことがそうさせたわけです。
ワタクシの育った環境は、好きにできないことだらけでした。
OLになって少ない初任給を手にした時が、最初に〈自由〉を感じました。
最初のマイカーはHONDAの黒のCR-X。自分のお給料で購入するにも関わらず、父は指定した車種を最後まで譲りませんでしたが、ワタクシだって自分で初めて購入する車くらい夢にまでみた車は無理だったけれど、CR-XはフィットしたのでHONDAのディーラーへ行き、契約をしてしまえばこっちのもの。アルミホイールを履き替えて、スポイラーなどヤンキー仕様にならないように標準装備、脚周りだけ美しくしてお気に入りの音楽を聴くためにスピーカーは当時流行りのKenwoodをリアに積み、休みの朝は手洗い洗車とワックスかけでピカピカ。この子と4年つきあいましたが幸せでした。最後の後ろ姿も光景まで憶えています。
当時はマニュアル車を乗るほうがカッコよかったし、ドライブは大好きでした。
CR-Xの返済を銀行へ毎月3年で完済。家賃と返済とガソリン代と税金を払うと手元には3万円くらいしか残りません。コーディネーターの学校へ通う資金もまだありません。
当時、結婚するまで親とは絶縁していたので、そんなこと頼める人間すら知りません。

そこであえなく、しばらくは大嫌いな上司と顔を突き合わせて、3年我慢と腹を決めました。

なにもできない小娘のくせに…といわれ、くやしいけどそう思いましたから。

その小娘のワタクシに何ができるのだろうか…
社員が来る前に掃除を毎日やろう。
具体的には、社長室と打ち合わせ室、窓周りの桟は砂のかけらもないようにしよう。
灯油を毎日大型ストーブに給油する作業は寒くて嫌な仕事だから、それも自分の仕事にしよう。
榊のお水は三脚に乗って毎日換えよう。
出入り口は午後にもう1回掃き掃除をしてきれいにしよう。

仕事らしい仕事がもらえるまで、毎朝6時半には出社して、1階のすべてのフロアーのデスクを拭き、掃除など上司が来る前に済ませておきました。

これは退社するまでの3年間毎日かかさず、後輩が出来ても変わらない習慣になっていました。

誰に言う必要は感じていませんでした。
だって、教えてもらえないのでそれ以外の仕事ができないんですもの(笑)
それくらいしかできなかったのですが、掃除をしながら色々な気づきがありました。

ここでの3年間では社会人としての自覚と、自分の立ち位置を認識し、自分は何者であるかということ、物事を教わるにはその態度と姿勢が問われるということ、社会からの評価とはどういう基準や視点であるのか、そして自分らしくブレないということの信頼性~忍耐を学びました。
ワタクシが本来、堪え性のない性格であるのに忍耐できた理由は〈目的〉があったからです。
どうしたいか、どうなりたいか…では具体的な行動をどのように起こすことで、近づくことができるのか…常に考えていました。
職場で使ってもらえるようになることを必死で考えていました。

時代背景は、バブル絶頂期からすこし経過した頃。
周囲は優雅な学生であったり、早く就職した組は海外旅行三昧。
そんな周囲とは価値観も現実の世界も違っていた自分は、定番の友人がいたし、決して孤独ではなかったけれど、自分のやりたいことを見つけたことの方がずっと気に入っていた。
仕事と勉強ばかりしていたので、お誘いもそのうち来なくなりました。
どんどん生活はタイトになっていきました。



時々お茶をいれるとおいしいと言ってくれる専務と、熱いとかぬるいとか言ってイヤミを必ず言う常務の人柄の違いの結果を考察していました。

この頃、女子社員にお茶入れをさせるのは、職場では〈よくない風潮として、各自で役職があっても掃除と自分が飲むものは女子社員に依頼してはいけない〉という通達が入社して1年くらいの時に出ました。

唯一の仕事である〈おいしいお茶入れ〉をせっかくセミナーで習ってきたのに、実践の場がなくなったわけです。来客時は、立ち居振る舞いまで自信をもって誘導し、お茶を出す作法なるものも披露する場があったのが救いでした。



お茶入れにまつわる話をひとつ思い出しました。


ちょうどその頃、幼少時父の小さな事業の会社へ機器メーカーの新人の営業マンとして毎日のように暇つぶしに来ていたTさんが、10年の時を経て県内では有数の硝子会社の副社長なり、顧客として来社されたことがありました。

一瞬見間違えたのかと思えるほどその風貌の変わりように、どきどきしました。

ワタクシがいうのもなんですが、当時でいう御曹司のチャラ男だったTさんは、立派な紳士、しかも〈偉いんだぞ~〉オーラに違和感を覚えました。

子どもだった自分も社会人となり、受付でご挨拶。

席へ誘導しお茶をいれて再度Tさんの前に出たときに勇気をもって 『ご無沙汰しております』 と小声でやっと言えました。

ところがTさんが目も合わせることなく、挨拶をきちんとしてくれません。 

まるで別人でした。

とてもひょうきんだった若者が、10年の歳月で威厳さを醸し出し、まるで〈お前とは違うから〉という空気が一瞬にして凍りつきました。

なんだかくやしいという気持ちが沸き起こりました。


それはワタクシにとって折り合いの悪い父であっても、なんとなく侮辱しているように感じたからです。


きっと当時のいい加減な営業マン時代に蓋をして、異業種へ転職し、どういう経緯であるか知る由もありませんが、きっと彼の人生を激変させるような出来事があっただろうと推測していました。

ワタクシの頭の中で色んな憶測が渦巻きながらも、何か言わなきゃと思い、打ち合わせが済んだのを見計らって、Tさんがひとりになった時にもう一度リベンジに向かいました。

『憶えていらっしゃいますか?Tさんが毎日のようにうちの会社へ遊びに来ていたころ、子どもだと思ってお風呂に入っている私をしっかりのぞきに来ましたよね?』

うっすらと小さく 『えぇ~?』 と言ったリアクション。

『あれは子どもでも忘れませんよ』 と、周囲の同僚や上司に聞こえるようにわざと大きな声で言ってやった。


それなのに、あの頃のTさんの冗談も笑いもとれなかった。


あとで彼の情報を母や担当営業マンの先輩へ聞いたのだが、結婚後息子さんが難病になり、とても苦労をされ明るかったTさんがすっかり変わってしまったこと。

のちにお子さんが亡くなってから仕事に没頭し、友人が興した事業を一緒に立ち上げここまで来たということを知った。

つきあいがあったのはTさんの新築祝いに父と小学生だった弟が行ったのが最後だったとか。

その時の写真までしっかりと残っていた。

人の生きざまは、本人の意思とは無関係に風貌やその態度ひとつをとっても出てしまう。



その後、何度か来社され打ち合わせをされていました。

2度目以降、もうワタクシの興味は失せてしまっていた。

あの明るくたのしいTさんはどこにもいない上、〈もう関わるな〉と言っているようだったから。


まだまだひよっ子1年生は続く…


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by fairytalem | 2013-08-27 10:53 | つぶやき | Comments(0)

カルトナージュやタッセルなど手仕事をご紹介


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