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若き日の記憶の旅11~編~

若き日の記憶の旅3からの続きです。

さて、コーディネーター養成学校へ入ったのは、美術専門学校時代のクラスメイトで1つ上のCさんからのお誘いがあったのがきっかけでした。


たまたま、建築業界に先に入っていたCさんは、「君ならできるよ」と同じ業界へ誘ってくれました。

元からお家のレイアウトなどにはとても興味があったのと父が図面も仕事上かいていたこともあり、小学生の時にすでに家の平面図を描いていました。

これも空想好きだったことと、父が夜遅くまでドラフターで配管図面をかいていたこともあるのかもしれません。かいている姿はほとんど見たこともないのですが…

Cさんは暖炉やサウナの設計もしていたので、よく図面を見に彼女の居るショールームへ行きました。

絵心があるからこんなの簡単だよと言って才能を見せ付けられましたが、嫉妬するといった感情が起こることはなく、なぜか私も建築関係に進んでみようという気になったのです。

実家の会社を辞めてしまったので、ハローワークへ行ってみたものの職をあっせんする職員とケンカをしてくる始末で、自力で職探しをすることにしました。

職歴を書き、プレゼンになりそうなものを持って、米国オーダー木製キッチン代理店へアポを取りいきなり面接までこぎつけました。

24歳のワタクシのそういった発想は、この後の人生に何度がお目見えしますがそれが突破口となり、実にユニークな展開になっていきます。

輸入正規代理店のこの小さな会社には、営業マン2名と設計士1名、事務員1名、社長と経理の奥様で構成されていました。

社長と営業マンは一流商社マン時代を経て起業したこともあり、数か国語ベラベラの頭脳派であるのはいいのだが(インヴォイスの時くらいしか使えない(笑))、実践力としての現場を知ろうとしない高慢ちきさには呆れることしかりだった。


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私は即時採用。

安月給ではあったのですが、それでもOL時代よりもUP。

決め手はやってみたいオーダー設計のお仕事だったから、お給料が少ないことはさほど問題ではなかったのです。

そこから、家賃とガソリン代と車のローン、食費、学費を捻出するのがギリギリではあったが、なんとかやっていける貧乏とはまだ縁が切れないことには変わらなかったし、そもそも貧乏であってもなくてもどうでもよかったのかもしれない。

当時は好きなことを自由に選択し、自分の思い通りに生きられる幸せをつかんだと思っていたからだ。


図面の書き方はなんとなくわかっている程度で、確信はもてなかったのですが、専門書を立ち読みして製図のなんたるかを知っていった。

独学であったので、些細な工夫も独特だったようでした。

ドラフターの使い方も周囲の先輩方に言わせると、かなりおかしかったらしい(笑)
ワタクシとしてはクセがついてしまっていたし、その方が断然きれいな線が描けるのだから問題なし。

正しい使い方はのちにチェックして多少修正はした(笑)

これが正しい使い方…なんてナンセンスであるという持論はとうの昔から持っていたので迷うことなく付き進んだ。

人からするとびっくりされる荒削りで破天荒に思われるらしいのですが、これはワタクシのいいところだと思っている。

朝まで製図を練習した24の夏だった。



ある程度製図もわかってきた頃に、Cさんがコーディネーターの資格修得するから某デザイン学校の専任教師が前橋で開講しオフィスを立ち上げるので、いっしょに勉強しない?というお誘いを受けた。

半期で30万の受講料だった|д゚)

当時はバブルがはじけた後ではあったが、まだその余韻があった時代で、高額な受講料をワタクシには出せる余裕がなかったことで一旦は諦めた。

しかし、当時すでに一緒に同居していた現夫がサポートをしてくれるということになり、学費をすべて出してもらったのだ。


あぁ、ありがたや…

すっかり今となっては忘れておったぞ。。。



コーディネーター養成学校は1年通ったが、高額であるから身につくのかというと疑問が残る。

自分から学習していった(探した課題)ことしか残らない気がする。

パースも習ったが…すでに絵心があるので、その形体の手順を覚えなくても、ホリゾンタルラインとVPの意味を理解していれば、どこのポイントから引っ張ってくるか感覚で捉えられたので、経過した今でも描ける。

自転車に一度乗れたら一生乗れる感覚と同じである。

過去にパースを描けたのに今は描けないという人は、理解できていないということだ。


ここでイラついたのは、先生が私の進む好奇心を抑えつけたこと。

ずっと同じ課題、同じところで足踏みをさせるのだ。

理解できていない生徒を主体に置き、ぞんざいに扱ったのが長すぎたため性急なワタクシは半年早く学校は辞めた。


それから、公立の夜学に建築科があることを設計士の人から聞き、入試を受けて入学した。

19歳の子や、40代の現場監督のお父さん、鉄骨会社の息子、カーテン屋に勤務するコーディネーター、設計事務所勤務の子など様々な職歴の人、年齢層の違う出逢わないハズの人たちがそこに居た。

給食もあったがワタクシは車移動の中でパンやおにぎりをかじって2年間済ませた。

日曜以外毎日5時から8時まで専門課程を学び、試験で単位を取った。

取れない人は課題や宿題、補講など夏休みなどで取らされた。

学生証を26才で持っているのは愉快だった。

いろんなところで学割の恩恵を受けた。


最初に木工技士を取り、最終的には建築士資格2級を習得。

今はどういう内容かわからないが、筆記試験と実技試験でコンクリートをつくり固める作業などもあったと記憶する。

30名以上受けて5名しか受からなかった。

勉強は必死だったので、毎回試験日は90点以内をキープすることだった。

若い子には負けるので、倍勉強をやらないといけないと思っていたし、実際は26才くらいならまだ若いから充分いけるのだが(笑)当時はもう若くないと思い込んでいたため、随分焦っていた気がする。

そういえばあの頃はまだ、20代で結婚できないなんて悲劇だという時代だった(笑)


物理が苦手だったこともあって、構造建築は好きだったが、力学は後半難解で大変だった。

コーディネーター時代の後輩の女の子は建築短大を出ていたのでその力学で出てくる微分積分から難解な計算式をよく後輩から得意げに教わったものだ。それが結構ツンデレ女子だったので、よく質問して楽しんだ。お礼に宅配ピザをランチに頼んでおごったりするとすごく喜んでかわいかったものだ。(まるでオッサン目線ですなw)

初期に出題される梁の計算で曲げモーメント、せん断、反力、たわみなど公式がある。
方持ち梁に先端荷重、等分荷重、先端分布荷重のそれぞれの公式がある。
まぁこれは簡単なのだが、のちにどんどん複雑になっていく。

女子にはおそらくトキメカナイ世界。

建築材料の多さで大概の女子は挫折をする。

最新の材料を各メーカーがいろんなうんちくを並べて販売する時代、学生もそれに合わせて資材を記憶するのだ。その量は数百どころではない。


建築業界では女子率は少なかったし、実際は現場では小馬鹿にされている立ち位置だったし時代もあって、コーディネーターなんて仕事も当時は成立していたのが不思議である。

今は、設計士自らその仕事をすべてこなし(体系化しセレクトされた中から施主が選ぶコスパのいいものからオーダーまで)建築着工数もぐんと少なく、リノベーションが流行っている。

10年以上前からこの国は設計士がやっていけない時代になってしまったのだ。

それはどの業界にも、空洞化が進み、一部の専門の人間がいれば足りてしまうように、今は信じられないがいずれはなくなってしまう職業のひとつだ。





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by fairytalem | 2015-08-11 11:34 | つぶやき | Comments(0)