若き日の記憶の旅6~心の拠り所祖父編~



4年生の時に母方の祖父が胃がんのため半年くらいで亡くなった。

皆誰でも記憶では子ども時間とは長く感じ、また退屈な上、今から思うと矛盾を感じるようだが特別な時間でもあることに気付く。

群大で胃を半分摘出し、その後うちの近所の日赤病院へ再入院することになり、それから亡くなるまでの3カ月くらいおばあちゃんも一緒に会社のある2階自宅で生活をして、家から病院まで通っていた。

時々子どもの足では遠い距離を30分以上かけて弟とふたり、日赤まで歩いてお見舞いに行ったりしていた。

入院した時は確かワタクシは浴衣を着ていたから、夏だったのだろう。

病院は夜の時間で廊下には誰もおらず、がらんとしたSFの異空間のように感じた。

病室では熱を出して弱っている祖父となぜか二人きりの場面が1度だけあった。
二人きりになることは4年生でも緊張を感じる存在の祖父だった。
恐いからではなく、ワタクシを真正面に見据えいつも包み込んでくれる存在に照れがあったせいだ。
つき放されることには慣れていても、優しく見守ってくれることを受け取るのは苦手だったから。


季節は変わり、昔は10月になると手袋が要るくらい、空っ風が冷たく感じたものだ。

お見舞いに弟と行くと決まっておじいちゃんは〈ママに言ってきたのか?〉〈ううん〉〈暗くなると寒くなるから弟を連れて早く帰りなさい〉 とたしなめられた。

〈せっかく来たのに…弟を連れてくるのは大変だったのにな〉

まっすぐ歩けない小学1年生の弟を車に注意させるだけで骨を折り、〈弟なんか連れてくるんじゃなかった〉と毎回後悔したが、おじいちゃんが喜ぶと思って放課後の平日に、弟を誘ってはお見舞いに幾度か行った。

帰りの空っ風は目を開けられないほどの風圧だった。

手袋を持たない弟に仕方なくもう片方の手袋を貸してあげた。


夕飯はおばあちゃんと弟と3人で店屋物のかつ丼や中華丼を食べるのが多かったけれど、こちらの方がご馳走に思えたものだ。

夜はおじちゃんが昼間に〈きれいだね〉言っていた、隣のベッドの男の子に千羽鶴が吊り下げられている様子を、にこやかに男の子に話しかけていたのが気にかかり、その日の晩から千羽鶴を母とおばあちゃんを頼って作り始めた。母は忙しいのであまり頼めずに、夏からおばあちゃんと作り溜めていった。

子どもだったから忘れてしまう時もあった。

それでもおじいちゃんが隣の男の子をうらやましそうに見上げている光景に見えてしまう自分の感情から、内緒で鶴を折り続けた。

あと、残り100羽を切った頃だったろうか…

4つ下のいとこのユリが伯母さんとうちへ来た。

年長さんになってすっかり大人びていた。

ユリと弟と3人でいつもの店屋物のソースかつ丼をまさに食べようとしていた時に、父が階段をものすごい勢いであがってきた。

〈オヤジが死んだぞ〉

とうとうこの時がきてしまったと、心臓がバクバクして口から飛び出るかと思った。

気が動転し、天井が歪んで見えるほど平静でいられなくなり、階段を下りて玄関口へ行き耐えきれず号泣した。

すると、年長さんも下りてきて〈ソースかつ丼がさめちゃうよ〉

〈食べられないよ〉さらに泣き続けた。

〈そんなに泣かないで、わたしまで泣きたくなってくるじゃない〉

年長さんらしならぬ生意気な言葉がストッパーとなり、何だか笑いが込み上げてきて思わず笑ってしまった。

年長さんにはお手上げだった。

ソースかつ丼のところへ戻った。

でも、口の中に入ったソース味が涙で変な味になってとても食べられなかった。


おじいちゃんの葬儀は小4のワタクシには、強烈な体験として心に焼き付いた。

これから誰を頼りに生きていけばいいんだろうか…

大げさに思われるが、ワタクシの人生の半分くらいはこの悲しみから逃れるまで想像以上に時間が必要だった。

誰よりも自分達姉弟を心配している祖父をうっすらと感じていた。

時間の経過と共に大きな喪失感でいっぱになっていった

葬儀のとき普段感情を表に出さない母が、棺に大きく泣き崩れる姿に〈なんかドラマのシーンみたいだ〉とぼんやり思っていた。

泣いたのは訃報を聞いた時だけで、あとはぼんやりとした意識へ身を置いていたのは喪失感が大きいためだったのだろう。

それを埋めようとするための理由を探しだした。

自分がいい子じゃなかったから死んでしまったのかもしれない…千羽鶴が間に合わなかったから自分のせいだ…自分の命と引き換えにしてもいいのに…と本気で思っていた。

子どもは何か大きな変化があった時、受け入れられないため自分がいけないと思い込んでしまうことは心理学ではよく知られている。

まさしくワタクシも強い衝撃をこのように自分のせいでそうなったと納得させた。

小学生いや、中学生くらまでは大きな変化には耐えきれる肉体と精神に育っていく過程では大人が気をつけてあげたい場面があると思う。

周囲の状況や自然な摂理として受け入れられるには、大人のフォローが大事だ。

ワタクシにとってその要の大人は祖父だった。


◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   


1年経過しても喪失感は一層増していった。

周囲からは様子がおかしいと見て取れるほどの陰気さがあったようだ。

とうとう5年生の冬、担任の音楽の女性担任教師に放課後呼び出され、様子がおかしい理由を問い詰められた。

おかしな話である。

ものすごく責められたのだ。

子どもでも5年生になると思考は立派に成長している。

この事実を大人は忘れてはならない。

なぜ学校で暗く皆と一緒に行動できない上、仲良しのイズミちゃん意外と組むことをわがままで拒んだことや、授業中質問に答えないこと…担任のヒステリーはエスカレートした。

〈アンタの方がよっぽど正確悪いじゃない〉

??
お互いイズミちゃんと組むつもりでいたところを、わがままいって割って入ってきたA子を不憫に思ったイズミちゃんが無理やり組まされ、挙句ワタクシからイズミちゃんを奪ったといった優越感でものすごい得意顔をしているA子にメラメラしていた時に、音楽教師がTさんと組みなさいと強引に組まされたので、心の整理が付かないまま納得がいかず、「元の組意外はイヤです」と言ったことに対して、Tさんは性格もいいし頭もいいのに、何が不満なの?!…の後にこのセリフがきた。
そして、Tさんは大泣きをしてワタクシはとても困ったのだ。

そんなつもりはない。
この流れを説明する猶予なんて与えてもらえないので、性格の悪い○○さんという言葉だけが残った。

大泣きしたTさんには悪いが、性格がいいとか頭がいいとか仲良くなるのはそこじゃない。

なんとなく反りが合う…気が合う…笑うとこが同じ…共有という部分で似た価値観がないと何の興味の対象にはならない。

教室を〈Tさんかわいそう〉という空気に一変させて、Tさんを無意味にさらし原因はこちらにあるとクラスの子に同意を求めた音楽教師を心からお悔やみを申し上げた。

ワタクシはひと言もTさんがイヤなんて言ってない。
なのに、落ち着いてからTさんに事情を伝えたのだが、意味を理解してもらえなかった。
クラスのさらしものにされたショックで、何を言っても無駄なことだったのだろう。
ワタクシはそんなことしょっちゅうだったから、慣れているけど普通はショックだよね。

バス旅行の組みだったので、1日バスの席ではTさんとは口もきかなかった。

音楽教師がワタクシがTさんに気を使って話しかけるところを期待しているのをわかっていたのでTさんには何の思いもないのだが、裏切ってやりたかった。

話は呼び出しに戻るが…

黙ってそれを聞いていると、突然出席簿を机に叩きつけ大声で罵倒された。

〈理由をいいなさい!〉鬼の形相だった。

理由?あなたの都合の理由?

担任に自分の心を見せる気は毛頭なかったし、助けてくれと頼んだ覚えはない。

自分が暗くて担任に迷惑をかけているとも思えないし、放っておいてくれればいいのに。

結局は自分の指導に何か問題があるとワタクシから避難されているという強い思い込みと自己中な思考から、教師である特権を利用して心の鍵をねじ込んで開けさせた。

祖父が亡くなり、ショックをひきずっていることを告げると、その表情は安堵していたのを見逃さなかった。

自分に理由があったわけではないとホッとしたのだろう。

それくらい5年生にはわかってしまう。

この大人も子どもを見下している。

次の言葉は猫なで声でよくドラマでも聞くセリフを取って付けたように、浮いたセリフでこういった。

『天国のおじいちゃんが喜ぶとでも思っているの?』

いい人の仮面を急に被ったところで、さっきまでのあの恐ろしい形相は一生忘れることができないというのに…

担任はすっかり忘れても、子どもは一生記憶に残っている。

この喪失感を理解できないこの担任を5年生は哀れに思った。


〈おじいちゃんが亡くなっただけで1年以上も心を閉ざすことの意味がわかない、寧ろ年寄りは死ぬのが当たり前なのだから、早く慣れて明るく元気にやってくれれば問題ないのに、子どものくせに何浸りきってるの?!』

『だって、おじいちゃんでしょう?親や兄弟じゃないんだし一緒に住んでいたわけじゃないでしょう?』 と意味不明な発言で責め続けてきた。


〈どんな存在であったか…でしょう?〉


あぁ、この音楽教師は大人の姿をしているけど寄り添うどころか自分の範ちゅう以外のことはまったくわからない、理解しようとなんて思わないんだ。

それからくどくどと放課後、日が落ちるまで今の暗い自分はいけない子どもだと、早く元気な子どもに戻れと無意味な説教を続けた。

こればっかりは、音楽教師の都合通りにはならず【時間】が必要だ。



◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇ 



ワタクシにとって祖父は、子ども時代に1人は必要な真の大人であり、見守ってくれる唯一の存在で砦でもあった。

ブレずに生きてこれたのも、祖父の存在のお陰だ。

なんだかわからないけれど、何をやっても静かに微笑む祖父の存在があったから、宿題をやらなくても、成績がものすごく悪くても、低学年の弟と無理に遊ばなくても、好きなTVばかり見ていても、部屋を片付けなくてもすべて許されると思えたことは実はとても重要なことだった。


独り、亡くなった祖父と対話する中で強い後悔があった。

勉強が嫌いでまったくやらなかった自分を〈お前は欲がないんだ。そのうち欲が出てくればやる。〉と、散々な通知表を見て怒り心頭の父を毎学期、制したものだ。

それをいいことに何もせずにいい気になって努力をしてこなかった。

祖父はこんなどうしようもない孫を信じて笑ってくれた。

なんという裏切り行為なんだと、戻らない時間を悔いた。

ものすごく、深く後悔をした。

いてもたってもいられずに、小学1年生のときからの教科書を全部出して毎日読み続けた。

母はそんな娘を見てやる気になったと察し、学研のマイコーチを探してきて毎月自主学習するようになった。

自慢にはならないがワタクシのそれまでの成績のひどさといったら、5段階評価で1か2のレベル。唯一5が採れたのは図画工作のみ!というすばらしい成績だった。

今では考えられないのだが、2年生まで宿題を一切やらずに済んだ貴重な存在だった(笑)

2年の担任はヘビースモーカーで授業中でもタバコをぷかぷかと吸っていた、昭和でもめずらしい「紅の豚」にそっくりな50代の男性教諭。

〈宿題を忘れたやつはいるか~?〉と言ったか言わないうちに、ワタクシはさっと手を上げて「やってきていません」とニッコリ。

しばらくして後から白状する要領の悪い男子Mは、紅の豚に平手でなぐられ一番後ろのロッカーまですっ飛んだ光景は見事だった。

「お前はいい。正直に言ったからな。」と、ワタクシには手をあげたことは一度もなかった。

1度も宿題をしてこないのに、1度も怒られたことがなかったのだ。

ただ時々「たまには宿題してこいよ」とやさしく言われた。

Mは毎度凄まじい勢いで平手撃ちをくらっていた。

昭和な時代である。

デパートで携帯用灰皿をママと見つけた時、紅の豚の顔を思い浮かべた。

ママに頼んで買ってもらい、翌日学校の職員室の隅で、黙って紅の豚にプレゼントした。

頭をぐるぐるとワンコのようになでられた。

この担任の違いは大きかった。

怒ることができるのにそれをやらないことで、ワタクシから大きな信頼を得ていたのだ。

子どもには理屈なんて通用しない。

それに紅の豚はチャーミングだった。

給食のとき必ずワタクシにプリンをくれた。

〈宿題やってこいよ〉と、必ず一言添えて。

当時も差別だと言って周りが許さないであろうことが、この紅の豚には無関係のようだった。

徹底的に愛をそそぐ人であった。

時々Mにもプリンをあげていたが、断然ワタクシのほうがエコひいきされていた。

しばらくしないうちに、ワタクシがあげた携帯用灰皿を授業中見ることがなくなった。

おそらく学校側へ保護者からの苦情があったのだろう…トレードマークのタバコぷかぷかがなくなり、なんとなく覇気がない。

タバコの煙なんてもちろん嫌いな子どもだったけれど、紅の豚のそれはなぜか好きだった。

新聞の御悔み欄で紅の豚が亡くなったことを知ったのは、就職した頃だったろうか。

教頭や校長にもならず一生教鞭をとっていたスタイルには、常識にはとらわれない型破りな愛を感じてしまう。


◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇ 


音楽教師は5年6年と2年間担任となり、6年生の時に成績順で1の川からランキング形式で生徒の席を決めて座らせることをやっていた時期があった。

記憶では春からだったと思うが、ワタクシの席は言うまでもなく最後の川で後ろから1桁だったと思う。

一番トップは若くして○○○○女子大の教授になったもう一人の優秀な方のM君が『ここからの眺めはいいな~』 と手をかざして見渡していた。

この行動で完全にM君を嫌いになった。

音楽教師の思考は、成績順の席に座らせることで常にくやしい思いやはずかしい思いをさせて勉強をあおるという幼稚な手段だった。

この成績順の事件について、同じクラスだった幼馴染が偶然再会した10年ぶりの際、開口一番、真っ先にこの話をしてきた。

ということは皆記憶にしっかりと各々の思いと共に刻印されているというわけだ。

きっかけはこの席順ではなく、祖父への後悔によってそれより先に始めていたマイコーチと教科書を読みなおし、猛勉強をパワーアップさせた。

だんだん勉強が面白くなってきたのだ。

【後悔】と【意思】と【決意】の柱は強固なものとなった。

そして…【見返してやる】というテイストがそこに加わったのだ。

テストでは、30~40点レベルから60~70点と中くらいまでに安定してきた頃、音楽教師はまた呼出して問い詰めてきた。

『テストの点が急に上がってきたけど、ちゃんと勉強やってるの?』

〈はいはい、カンニングを疑うのかい〉

子どもならハートブレイクするようなことを平気で言っているこの音楽教師には何も弁明する必要はないと思った。

さらに70~80点がとれるようになった頃もまたまた呼出しがあり、

『こんなに急激に勉強ができるわけがない』 とわざわざ言ってきた。

ワタクシは無言のまま無礼な音楽教師に背を向けた。

それくらいしたっていいと思ったからだ。

そういう大人をくった態度に腹を据えかねていたことも知っていた。

その頃席順は、3の川あたりで中の上まで上がってきた。

半数のくやしい思いをしてきたクラスメイトたちは、2学期に入る前に保護者から苦情がありこの恐ろしい制度を取り止めることなったのを非常に納得のいかない思いのまま終焉した。

『どうせやるなら最後までやって』 という声があちらこちらから聞こえてきた。

もちろんワタクシも同感だった。

カンニングを疑われたのだから。

1学期の通知表を開いた時は、音楽教師を許せないと思った。

疑われたのではなく、そう思いたかったようだ。

2学期も席順を廃止しても勉強は中学まで続いた。
6年の3学期でも成績は中くらいにも上がらなかった。
テストはもう80~90点、時には満点が採れるようになったというのに、この音楽教師は認めようとしなかったのだ。

生意気な態度に対する制裁だというところだろう。

小学校では鼓笛隊を高学年になると全員参加で演奏しながら行進し、秋のお祭り行事に参加するイベントがある。
このイベントへの意気込み、鼻息の荒さにはワタクシには理解できなかったし、意味があるとも思えなかった。

それは、音楽教師が教師生命とやらを賭けて一段とヒステリーになるからだ。

子どもたちの演奏がひどいので夜も眠れないとか、耳鳴りがするとか、あなたたちのせいでこんなに真剣に指導しているのに、なぜ上達しないんだと毎回繰返し怒鳴っているので眉間の怒りジワが益々深く刻まれていった。

子どもたちは教師生命だか何だか知らないが、もううんざりしていた。

音楽ってちょっとたのしくないな…と、思ってしまうほどだった。

それでも、リコーダは好きだったので家でもずっと吹いていたからテストの時は音楽教師も認めざるを得なかったようだ。

後に、弟からその件で被害をこうむったと散々怒られたのだが…

この一連の出来事は母にはすべて報告していたので、通知表に反映されなくてもいいと思っていた。


◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇ 


中学1年の時には8クラスもある1000人のマンモス校で、1クラス50人近くいた丙午の2年下の時代だった。

いきなり成績はダイレクトにそのまま評価され、体育以外は5をもらえた。

小学校の散々な成績を知っている子は信じられないといった顔をしていたが、そのうち周囲は何となく〈できるやつ〉と同じ時間を過ごすようになった。

担任の生物の教師通称ケメ子(昭和の漫画)からは 『絶対、ぐれない真面目な子』 と親子面談の席で太鼓判を押された。

後に、この太鼓判というやつの効力の無さを思い出すと笑いが込み上げてくる。






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by fairytalem | 2013-10-18 11:30 | つぶやき

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