若き日の記憶の旅2~自立編~

こんにちは、Fairytaleです

若き日の記憶の旅2~自立編~です。

22歳から貯蓄ゼロで家を出たため、厳しい経済状況の学生兼自立生活でした。
今から思うと微笑ましい食生活で、給料日前はキャベツだけの肉なし焼きそばがお弁当の定番。
その頃のクリスマスはハンバーグが贅沢料理として写真まで撮ってあります(笑)
カーテンもしばらくつけられず、TVなんてもっていません。当時ボーナスで購入した10万円のパナソニックの画王が来た時は、昭和か?!という喜びようでした。
生活用品はなかなか揃わず、それでもあまり不具合も感じることはありませんでした。
自由で好きなことができる喜びには代えがたいものだったことで、景色さえ一変してしまったからです。

自由であることに死ぬほど嬉しかったのです。

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自由を実感できる現代の若者であったのは、厳しい家庭だったことがそうさせたわけです。
ワタクシの育った環境は、好きにできないことだらけでした。
OLになって少ない初任給を手にした時が、最初に〈自由〉を感じました。
最初のマイカーはHONDAの黒のCR-X。自分のお給料で購入するにも関わらず、父は指定した車種を最後まで譲りませんでしたが、ワタクシだって自分で初めて購入する車くらい夢にまでみた車は無理だったけれど、CR-XはフィットしたのでHONDAのディーラーへ行き、契約をしてしまえばこっちのもの。アルミホイールを履き替えて、スポイラーなどヤンキー仕様にならないように標準装備、脚周りだけ美しくしてお気に入りの音楽を聴くためにスピーカーは当時流行りのKenwoodをリアに積み、休みの朝は手洗い洗車とワックスかけでピカピカ。この子と4年つきあいましたが幸せでした。最後の後ろ姿も光景まで憶えています。
当時はマニュアル車を乗るほうがカッコよかったし、ドライブは大好きでした。
CR-Xの返済を銀行へ毎月3年で完済。家賃と返済とガソリン代と税金を払うと手元には3万円くらいしか残りません。コーディネーターの学校へ通う資金もまだありません。
当時、結婚するまで親とは絶縁していたので、そんなこと頼める人間すら知りません。

そこであえなく、しばらくは大嫌いな上司と顔を突き合わせて、3年我慢と腹を決めました。

なにもできない小娘のくせに…といわれ、くやしいけどそう思いましたから。

その小娘のワタクシに何ができるのだろうか…
社員が来る前に掃除を毎日やろう。
具体的には、社長室と打ち合わせ室、窓周りの桟は砂のかけらもないようにしよう。
灯油を毎日大型ストーブに給油する作業は寒くて嫌な仕事だから、それも自分の仕事にしよう。
榊のお水は三脚に乗って毎日換えよう。
出入り口は午後にもう1回掃き掃除をしてきれいにしよう。

仕事らしい仕事がもらえるまで、毎朝6時半には出社して、1階のすべてのフロアーのデスクを拭き、掃除など上司が来る前に済ませておきました。

これは退社するまでの3年間毎日かかさず、後輩が出来ても変わらない習慣になっていました。

誰に言う必要は感じていませんでした。
だって、教えてもらえないのでそれ以外の仕事ができないんですもの(笑)
それくらいしかできなかったのですが、掃除をしながら色々な気づきがありました。

ここでの3年間では社会人としての自覚と、自分の立ち位置を認識し、自分は何者であるかということ、物事を教わるにはその態度と姿勢が問われるということ、社会からの評価とはどういう基準や視点であるのか、そして自分らしくブレないということの信頼性~忍耐を学びました。
ワタクシが本来、堪え性のない性格であるのに忍耐できた理由は〈目的〉があったからです。
どうしたいか、どうなりたいか…では具体的な行動をどのように起こすことで、近づくことができるのか…常に考えていました。
職場で使ってもらえるようになることを必死で考えていました。

時代背景は、バブル絶頂期からすこし経過した頃。
周囲は優雅な学生であったり、早く就職した組は海外旅行三昧。
そんな周囲とは価値観も現実の世界も違っていた自分は、定番の友人がいたし、決して孤独ではなかったけれど、自分のやりたいことを見つけたことの方がずっと気に入っていた。
仕事と勉強ばかりしていたので、お誘いもそのうち来なくなりました。
どんどん生活はタイトになっていきました。



時々お茶をいれるとおいしいと言ってくれる専務と、熱いとかぬるいとか言ってイヤミを必ず言う常務の人柄の違いの結果を考察していました。

この頃、女子社員にお茶入れをさせるのは、職場では〈よくない風潮として、各自で役職があっても掃除と自分が飲むものは女子社員に依頼してはいけない〉という通達が入社して1年くらいの時に出ました。

唯一の仕事である〈おいしいお茶入れ〉をせっかくセミナーで習ってきたのに、実践の場がなくなったわけです。来客時は、立ち居振る舞いまで自信をもって誘導し、お茶を出す作法なるものも披露する場があったのが救いでした。



お茶入れにまつわる話をひとつ思い出しました。


ちょうどその頃、幼少時父の小さな事業の会社へ機器メーカーの新人の営業マンとして毎日のように暇つぶしに来ていたTさんが、10年の時を経て県内では有数の硝子会社の副社長なり、顧客として来社されたことがありました。

一瞬見間違えたのかと思えるほどその風貌の変わりように、どきどきしました。

ワタクシがいうのもなんですが、当時でいう御曹司のチャラ男だったTさんは、立派な紳士、しかも〈偉いんだぞ~〉オーラに違和感を覚えました。

子どもだった自分も社会人となり、受付でご挨拶。

席へ誘導しお茶をいれて再度Tさんの前に出たときに勇気をもって 『ご無沙汰しております』 と小声でやっと言えました。

ところがTさんが目も合わせることなく、挨拶をきちんとしてくれません。 

まるで別人でした。

とてもひょうきんだった若者が、10年の歳月で威厳さを醸し出し、まるで〈お前とは違うから〉という空気が一瞬にして凍りつきました。

なんだかくやしいという気持ちが沸き起こりました。


それはワタクシにとって折り合いの悪い父であっても、なんとなく侮辱しているように感じたからです。


きっと当時のいい加減な営業マン時代に蓋をして、異業種へ転職し、どういう経緯であるか知る由もありませんが、きっと彼の人生を激変させるような出来事があっただろうと推測していました。

ワタクシの頭の中で色んな憶測が渦巻きながらも、何か言わなきゃと思い、打ち合わせが済んだのを見計らって、Tさんがひとりになった時にもう一度リベンジに向かいました。

『憶えていらっしゃいますか?Tさんが毎日のようにうちの会社へ遊びに来ていたころ、子どもだと思ってお風呂に入っている私をしっかりのぞきに来ましたよね?』

うっすらと小さく 『えぇ~?』 と言ったリアクション。

『あれは子どもでも忘れませんよ』 と、周囲の同僚や上司に聞こえるようにわざと大きな声で言ってやった。


それなのに、あの頃のTさんの冗談も笑いもとれなかった。


あとで彼の情報を母や担当営業マンの先輩へ聞いたのだが、結婚後息子さんが難病になり、とても苦労をされ明るかったTさんがすっかり変わってしまったこと。

のちにお子さんが亡くなってから仕事に没頭し、友人が興した事業を一緒に立ち上げここまで来たということを知った。

つきあいがあったのはTさんの新築祝いに父と小学生だった弟が行ったのが最後だったとか。

その時の写真までしっかりと残っていた。

人の生きざまは、本人の意思とは無関係に風貌やその態度ひとつをとっても出てしまう。



その後、何度か来社され打ち合わせをされていました。

2度目以降、もうワタクシの興味は失せてしまっていた。

あの明るくたのしいTさんはどこにもいない上、〈もう関わるな〉と言っているようだったから。


まだまだひよっ子1年生は続く…


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by fairytalem | 2013-08-27 10:53 | つぶやき

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